ルーツ探しの旅 完結編 黒潮町

鹿島ヶ浦から望む黒潮町佐賀

ルーツ探しの旅 佐賀・長崎」の続き、母方の祖父と曾祖父の出生と本籍地である高知県幡多郡黒潮町佐賀を訪ねた。19日に福岡で両親の法事があったので、その帰りに行く事にした。

宿泊した北九州市八幡西区黒崎を午前7時30分に出発、国道九四フェリー(佐賀関~三崎)を経由して黒潮町に着いたのが午後4時頃だった。その後黒潮町を午後5時30分頃に出発し瀬戸大橋経由で山陽道を使い、自宅に着いたのは翌日の午前1時だったので、滞在時間を含めて17時間30分の行程だった。
走行距離は、フェリーでの移動を含んで以下の通りである。山陽道からは雨が降り出して、久しぶりだった高速道路の運転は怖かった。今思えば、無理せずに一泊すべきだった。

北九州市八幡西区黒崎~高知県幡多郡黒潮町佐賀 348km
高知県幡多郡黒潮町佐賀~瀬戸大橋経由~彦根市 521km
合計 869km

国道九四フェリー
国道九四フェリー 遠くに見えるのは大分県の高島
佐田岬半島の風車
佐田岬半島の風車

調べた所、黒潮町佐賀はカツオ一本釣り船団による漁獲量が、合併前の佐賀町時代から県下一で黒潮町自慢の「土佐さがの日戻りカツオ」として知られているらしい。またウィキペディアによると、井上陽水は福岡県田川郡糸田町中糸田に生まれたが出生届は父親の本籍地である佐賀町(現在の黒潮町佐賀)に出されている。佐賀町の井上家は大きな網元で広い山林を持つ資産家であったが、昭和初期には没落しそこを離れている。母方の祖父や曾祖父は井上陽水の祖先とすぐ近くに住んでいたようだ。

黒潮町佐賀に到着して、役所で確認した本籍地の番地に当たる家を訪ねたが不在だったので、近くの家で土地柄などを聞いてみたがよく分からないとの事だった。何の収穫もなくては帰れないと思い、来るときに鹿島ヶ浦から佐賀を一望できた場所があったので、そこまで戻り鹿島ヶ浦の夕方の景色を撮影した。この景色を多分ご先祖達も眺めたことだろう。

鹿島ヶ浦の鹿島
鹿島ヶ浦の鹿島
鹿島ヶ浦と鹿島
鹿島ヶ浦の眺め、左の山の手前に見えるのが佐賀

鹿島ヶ浦の撮影を終えて再度本籍地の番地に行きその付近を撮影していると、その家の方が車で帰って来られた。事情を話すと、色々とお話を聞くことができた。その家は祖父の代にここへ来られたとの事だった。私の曾祖父の死亡地は大阪で、その頃にはそこを離れていると思われるが、番地が当時と同じであるかはよく分からないとの事だった。

佐賀は土佐の小京都と呼ばれる中村(現在の四万十市)の東に位置していて、奉行所や旅籠屋などもあって賑わっていたそうだ。本籍の番地は、そのような中心部だった通りに面している。住人の方は私と同じ年で、帰りに何かの参考にとお父様のエッセイをまとめた本を頂いた。そして母の旧姓である窪田について、もし何か情報があれば連絡して頂けるようお願いして佐賀を後にした。

母は生前、祖父である父親は高知の武士の家系だったと言っていた。祖父は長男であったが早くに高知を出たようで、27才の時に福岡県中間市で祖母と結婚しているが、母が6才の時に39才で亡くなっている。
祖父の祖先が住んでいた佐賀は武士のいるような城下町ではないが、それなりに賑わっていたようで奉行所もあったとの事なので、武士の可能性も僅かだがあるかも知れないと思ったりしている。
今回の旅で地元の人の土佐弁を聞いていると、祖父は土佐弁から筑豊弁の所に移動しているので、方言の違いに戸惑ったのではないかと想像を膨らませたりした。

これでルーツを探す旅は終わりにしようと思う。地元のお寺や郷土史を調べるなど、少しは手掛かりを探す方法はあるかも知れないが、出生地を離れて移動していると、そのまま何代も住んでいるような家系と違いルーツを探すのは難しい。祖先と関係する人などに巡り合う事は無かったが、それぞれのルーツが住んでいた土地柄を少しは知る事ができたので良かったと思っている。

黒潮町佐賀-1
黒潮町佐賀の本籍地付近
黒潮町佐賀-2
黒潮町佐賀、後方は海方面で昔からあるこの通りに本籍地がある

故郷(ふるさと)について 小石原の皿山

小石原の茅葺き

ルーツを探す旅を経て、私にとっての故郷(ふるさと)について考えた。「こきょう」は広辞苑によると【故郷】「生まれ育った土地。ふるさと。郷里。」となっている。
生まれ育った土地を意味する類語は数多くあり、一部をあげると郷土・郷里・古里・旧里・田舎・在所・地元・生まれ・生地・出生地・出身地・出所・国・国もとなどがある。

また「ふるさと」は広辞苑によると【古里・故郷】
1、古くなって荒れはてた土地。昔、都などのあった土地。古跡。旧都。
2、自分が生まれた土地。郷里。こきょう。
3、かつて住んだことのある土地。また、なじみ深い土地。

「ふるさと」を書く場合、ふる里・古里・故郷などがあると思うが、新聞では故郷と書いた場合は「こきょう」と読ませ、「ふるさと」と読ませる場合は古里と書くようだ。
故郷を「ふるさと」と読むのは高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「兎追ひしかの山」で始まる唱歌のタイトル「故郷」を「ふるさと」と読ませる影響もあるようで、私も故郷と書いてふるさと読む場合も多い。

故郷は多分「こきょう・ふるさと」どちらで読んでも良いのだろうが、読み方で意味合いが少し違うように思う。故郷を「こきょう」と読むと、生まれ育った土地の意味合いが強いと思われる。今回のように故郷を「ふるさと」と読む場合は、生まれ育っただけではなく、かつて住んだことのある土地やなじみ深い土地、そして田舎的な土地柄なども含まれてくる気がする。

故郷と同じような意味で自分のルーツを示す言葉で良く使われるのは、出生地・出身地・地元などではないだろうか。出生地は実際に生まれた土地なので良いが、それ以外は使い分けで悩むこともある。
地元の場合は、生まれ育った場所でも使うが、現在居住している所や本拠地的な使い方が多いように思う。出身地は故郷とかなり近い気がする。出身地は幼少期から高校卒業(または中学卒業)までを過ごした所を言う事が多いが、どちらも生まれた土地だけではなく、幼少期から思春期の頃に住んで自分のアイデンティティが確立した場所を言うからだと思う。

私の故郷はと言えば、福岡県遠賀郡水巻町で筑豊の炭鉱町になる。そこで生まれて高校を卒業するまで過ごした。住んでいたのは下の写真にある炭鉱住宅の長屋(赤丸の所)だった。

日炭高松炭鉱 第一鉱
【「日炭高松炭鉱の記憶」昭和30年代の日炭高松・第一鉱】より引用して加工

しかし私が故郷(ふるさと)いう言葉で連想するのは、人も家も少なく自然に囲まれたひなびた田舎の風景だ。生まれ育った所は、それとは少し違うし、ルーツを探す旅でも書いたが先祖代々住む土地でも無かった。
私はこれまでに済んだことのある場所は現在の所を含めて15か所になり、引っ越しは14回もしている。子供たちにも古里的な環境を与える事は出来なかったように思う。

自分の故郷はと聞かれると、やはり九州(福岡)と言うし、それは生まれ育った所になる。しかし第二の故郷のように感じる場所が二か所あり、それは古里のように感じる場所だ。一つ目はかっての福岡県朝倉郡小石原村皿山で、現在の福岡県朝倉郡東峰村小石原の皿山地区である。ここは高校卒業後に1年間住んでいた。
もう一つは現在撮影中の君ヶ畑である。君ヶ畑は住んだことは無いが、何度も訪れていて住人さんとも顔なじみで、懐かしい場所になっている。共通するのは美しい自然に囲まれ、長く変わらない景色が残っている事だと思う。

小石原は飛び鉋 、刷毛目、流し掛け、打ち掛けなどの技法がある陶器の小石原焼で知られている。小石原焼は柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチなどの民藝運動で知られるようになり、私は高校を卒業して小石原焼の福島窯に弟子入りした。
当時皿山の窯元には各地から同世代の若者達が弟子入りしていて、彼らと酒を酌み交わし遅くまで語り明かすことも多かった。標高500メートルの山中に開けた山村である小石原焼の窯元では、焼き物以外に米作りなどもやっていて稲刈りなども手伝だった。茅葺きの家も残っていて、風呂は五右衛門風呂だった。そんな田舎だったので、1年間暮らしただけだが、愛着の残る場所である。

1967年頃の小石原にて
1968年頃 木乃丸院窯の松山正博さんと一緒の所を松山昌子さんが撮影。
場所は松山さんが弟子入りしていたマルダイ窯の所だと思われる。

ルーツを探す旅の帰りに、フェリーまでの時間が少しだけ取れたので約20年ぶりに寄ってみた。前回来た時に訪ねた私が弟子入りした福島本窯(ちがいわ窯)は、皿山から国道211号沿いに引っ越している。弟子入り当時に小学生だった福島善三さんは、現在は窯元を受け継いでいる。そして独自の作風を確立して、2017年に重要無形文化財保持者として人間国宝に選ばれている。
今回は当時いた若者のうちで一人だけ残る、やままる窯の梶原二郎さんと少しだけ会う事ができた。もう仕事は引退しているそうで、息子さんが14代目を継いでやっておられる。

皿山には38年ぶりに行った。私が弟子入りした1968年頃は窯元はほとんど皿山にあって10戸程度だったのではないかと思うが、現在は211号線沿いなども含めて50戸程が窯元としてやっている。皿山は多分年月と共に変わっていると思うが、見覚えのある所も多くて懐かしかった。

1984年1月 小石原皿山の中野大明神にて
2022年9月21日 小石原皿山の中野大明神
1984年1月 マルダイ窯の前で
2022年9月21日 マルダイ窯は茅葺きを1年位前に葺き替えたそうだ。 
2022年9月21日 左の建物は昔「山の茶屋」だった。ここで酒を酌み交わし語り合ったりしていた。この坂を登るとかっては福島本窯があった。
2022年9月21日 弟子入りしていた福島本窯があった場所。右側に住宅、左に工房があった。その2階に住み込みで弟子入りしていた。

最後に若い頃に読み今でも好きな伊東靜雄の「詩集 わがひとに與ふる哀歌」に入っている「曠野の歌」を紹介しようと思う。

伊東靜雄の詩「曠野の歌」