野外活動研究会「夏の発表会 2020」の原稿

君ヶ畑の40年前と今

8月16日(日)10時より愛知芸術文化センター《12F》アートスペース・EFで行われる予定だった、2020年の野外活動研究会「夏の発表会:遠ざかるディスタンス:昭和・平成・令和の観察」の発表用原稿です。発表会は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、開催が延期となりました。現在の所、開催時期や方法は未定です。
実際の発表ではスライド上映して説明などを追加しますが、全体の概要は分かるのではないかと思い掲載しておきます。君ヶ畑の取材は、4月5日の普請以降は新型コロナウイルスの感染拡大防止のために自粛しています。そのため、まだ途中経過での発表となります。今後1年間の生活などを取材して、40年前と比較する事で何か見えてくるのではないかと思っています。

『小椋谷君ヶ畑の40年前と今』

君ヶ畑は滋賀県の南東部にある東近江市の北東、奥永源寺地区の小椋谷と呼ばれる地域にある。鈴鹿山脈の西側山間部、愛知川の上流御池川沿いにあり、標高はおよそ450mで冬季は積雪が多い。小椋谷は「木地師のふるさと」として全国的に有名で、なかでも君ヶ畑と蛭谷は木地師発祥の地として知られている。2018年度に「小椋谷」は日本森林学会(東京)の「林業遺産」に認定されている。
野外活動研究会は1977年(昭和52年)夏に初めて君ヶ畑を訪れ、その後2年半に渡り見聞採集し報告書「フィールドへ AD AGREM 6号―1980:君ヶ畑」として1980年(昭和55年)1月15日に発行した。私は1978年4月29日に初めて訪れ、その後1979年6月10日まで計14回19日間にわたり撮影と取材をした。それをまとめて「写真集 小椋谷の人びと」として自費出版した。その後は君ヶ畑を訪れる事も無く40年の歳月が過ぎたが、2019年から君ヶ畑のその後の様子を記録するために通っている。
「写真の記録帖」https://photokiroku.com/  君ヶ畑の写真記録などを掲載しているサイト

君ヶ畑の住所表示
・40年前 滋賀県神崎郡永源寺町君ヶ畑
・現在 滋賀県東近江市君ヶ畑町

君ヶ畑への経路
車での主となる経路は国道421号で政所まで行き、そこから県道34号多賀永源寺線で御池川沿いに蛭谷へ、そこで34号の筒井峠方面には行かずに右折して御池川を更に約3km余り遡った所にある。現在は永源寺地区または永源寺より先を奥永源寺地域と呼んでいる。
公共交通機関の場合は、近江鉄道八日市駅から近江鉄道バス御園線で永源寺車庫(山上などでも可)まで行き「ちょこっとバス」政所線で終点の君ヶ畑下車。
・40年前 バスは政所まで 君ヶ畑へは政所から約7Kmを徒歩で1時間半から2時間

君ヶ畑の人口や戸数などの変遷
君ヶ畑の戸数など
・1979年(昭和54年) 「フィールドへ No6 君ヶ畑」調査報告
 総戸数 54戸 常時居住の家 37戸 普段不在 13戸 空き家4戸
・2020年(令和2年)
 常時居住の家 13戸(冬季は施設に入るなどで2~3戸減る) 約16人
 自治会の加入 26戸 (1組6戸 2組7戸 3組7戸 4組6戸)

・1880年(明治13年)人口 620人  65戸(角川日本地名大辞典)
・1955年(昭和30年)人口 221人  世帯数 54(永源寺町史 通史編)
・1975年(昭和50年)人口 147人  世帯数 49(角川日本地名大辞典)
・1995年(平成7年) 人口 90人  世帯数 36(永源寺町史 通史編)
・2008年(平成20年)人口  53人  世帯数 27(東近江市統計書)
・2018年(平成30年)人口 31人  世帯数 22(東近江市統計書)

仕事の変遷
・40年前
製材所2軒 製茶工場1軒 シイタケ・ナメコ栽培 縫製の内職
・現在
「ろくろ工房 君杢」木工品 「(株)みんなの奥永源寺」オーガニックコスメ

施設などの変遷
・40年前
集会所・君ヶ畑分校・製茶工場・製材所3か所(1か所は旧茶工場)
・現在
[無くなった] 君ヶ畑分校・製材所(旧茶工場)
[建物のみあり]    製材所2か所 ・製茶工場(「木地師のふるさと 高松会」で使用)
[増えた]     ノエビア 鈴鹿高山植物研究所 2003年(平成14年)開設{新君ヶ畑分校 1982年校舎完成 1999年に廃校}・天狗堂登山口・天狗堂登山観光駐車場・君ヶ畑ミニ展示館・バイオトイレ

・茅葺き屋根の家 40年前 15戸   現在 0戸

小椋谷と木地師
木地師は木地屋・轆轤師などとも呼ばれ、良材を求めて全国を歩く流浪の民で、木を切り出して木製の椀や盆などの器を作ることを生業とした職人の事である。
小椋谷六ヶ畑と呼ばれる君ヶ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、九居瀬(今はダムに沈む)の6集落が木地師発祥の地とされていて、その中でも君ヶ畑と蛭谷は、木地師の祖神とされる惟喬(これたか)親王ゆかりの地として知られる。
惟喬親王は文徳天皇の第1皇子であったが皇位継承争いで皇位につけずに都を離れ、近江国小椋ノ庄に隠棲して轆轤による木地製作の技法を、家臣であった小椋大臣実秀と大蔵大臣惟仲に伝授したのが木地師の始まりといわれている。
木地師については、1964年(昭和39年)発行の宮本常一『山に生きる人々』の「木地屋の発生」「木地屋の生活」で木地師について書かれていて君ヶ畑についての記載もある。また1971年(昭和46年)発行の第24回読売文学賞受賞を受賞した白洲正子『かくれ里』の中で「木地師の村」として君ヶ畑が紹介された。「当時は他の地区は過疎地帯になりつつあるが、君ヶ畑は暮らしが豊かで人口の変動も少ない。」と記されている。
その他現在は木地師に関する研究や情報は多くあり、東近江市は「木地師のふるさと」として「平成の氏子駈・氏子狩復活事業」を行うなど木地師の文化や魅力を発信している。

氏子狩・氏子駈
君ヶ畑は高松御所(大皇大明神)、蛭谷は筒井公文所(筒井八幡宮)を木地師の本拠として木地師を氏子として管理した「氏子駈帳・氏子狩帳」(県指定民俗文化財)が残っている。それは木地師が住んでいる地名や人名などが列記された冊子で、江戸時代の木地師の様子や全国の木地師の分布と移動の様子などを示す貴重な資料となっている。

君ヶ畑の姓
・40年前
小椋姓(16戸)辻姓(6戸)大蔵姓(5戸)瀬戸姓(5戸)有馬殿姓(4戸)野瀬姓(4戸)牧 谷姓(2戸)田中姓(3戸)熊谷姓(2戸)城戸姓(2戸)藪、南、田附各姓1戸
・現在
 小椋姓(8戸)大蔵姓(3戸)瀬戸姓(3戸)有馬殿姓(2戸)田中姓(2戸)家田(2戸)辻、野瀬、牧谷、城戸、前川各姓1戸 1戸は現在不明

2020/08 藤山 強

破風に「水」の文字

茅葺きの破風-003

茅葺きにトタンを被せた家を記録していると、破風に水という文字の書いてある家が多い。彦根市では茅葺き以外の民家でも時々見かけるが、以前住んでいた名古屋市近辺では見なかったので気になっていた。調べてみると関西方面にはよくあるようで、滋賀県は特に多いようだ。

小椋谷の君ヶ畑の写真を調べてみると、破風に家紋の場合もあるが多くの家に水の文字があった。これまで気が付いてはいたけれど、何となく屋号のようなものかなと漠然と思っていた。調べてみると瓦に水の文字があるのと同じ様に、火災から建物を守る火伏せのまじないとして入れているようだ。その由来は庶民には許されなかった懸魚(げぎょ)の代わりに水と言う文字を描くことで火伏せのまじないとしたようで、江戸時代末期に始まり明治の頃に定着したらしい。

懸魚とは神社やお寺などの破風板部分に彫刻を施し取り付けられた妻飾りの事で、もともと中国で水と関わりの深い魚を屋根に懸けることによって、火に弱い木造の建物を火災から守るために火伏せのまじないとして取り付けた事による。中国では垂魚とも呼ばれ雲南省には魚の形をした板を屋根に懸ける風習が残っているらしいが、日本では様々な意匠をこらした装飾的なものとなっている。懸魚はもともと寺社や城の建築のみに使われていたが、江戸時代には武家屋敷や庄屋クラスの民家にも付けられることが許されるようになり、明治以降は一部民家の建築でも使われるようになった。機能的には屋根の両端の瓦のない部分や、棟木や桁の端などを隠して雨風から守る意味もある。

彦根市の社寺にある懸魚
彦根市の民家に破風にある「水」の文字

これまで撮影した茅葺きの破風には色々なタイプがある。トタンを被せた屋根では水の文字や家紋、懸魚もあった。茅葺きが残っている家では、文字などは無く前垂れと呼ばれる葭などを竹で押さえた棟端飾りが残っている。これまで記録した12戸のうち水の文字があるのは6戸だった。また懸魚は4戸に付いていて、1戸は懸魚、家紋、水の文字と三つ揃っている。

彦根市の茅葺きとトタンを被せた屋根

彦根市の茅葺き-003

茅葺きは萱葺きとも書き、一般的にはススキやチガヤなどを材料にして屋根を葺いた家屋の事を言う。身近な草で屋根を葺いたものを総称では草葺きと言う事になると思うが、藁葺きを総称のように使う場合もある。ススキやチガヤなどを使う場合は茅葺き、稲ワラや麦ワラなどを使う場合は藁葺きと用いる材料によって呼び方を区別する場合もある。私自身は子供の頃は藁葺きと言っていたように思う。茅葺きと言えば世界文化遺産の白川郷の合掌造りは有名だが、以前は少し田舎に行けばよく見かけたけれど最近は少なくなってきた。建物が残っている場合でも、古くなった茅葺き屋根にトタンなどの金属を被せた屋根が多くなっている。トタンは建築資材として使われている亜鉛めっき鋼板の事だが、被せている金属の種類は正確には分からないので、ここでは一般的なトタンと記載することにする。
現在取材している小椋谷の君ヶ畑では、1979年10月には民家55戸のうち入母屋茅葺きは15戸、入母屋茅葺きにトタンを被せた屋根は17戸(1980年1月発行 野外活動研究会「フィールドへ No.6 君ヶ畑」より)だったが、現在は茅葺き屋根の家は無くなりトタンを被せた屋根のみになってしまった。
現在私は彦根市に住んでいるが、自宅の近辺でも茅葺きにトタンを被せた屋根を見かける事がある。それはやがて無くなっていくと思うので記録しようと思い撮影を始めた。茅葺き屋根にトタンを被せた屋根について調べると、一般社団法人日本金属屋根協会のホームページに「茅葺き屋根の缶詰は タイムカプセル?(ルーフネット 森田喜晴)」という記事があり、 「茅葺きファンから見れば茅葺き屋根が金属葺きに変わるのは嬉しいことではありません。それを「缶詰(カンヅメ)」と呼び評価しません。一方で「缶詰屋根は茅葺きという文化を伝えて行く上でとても大切」という茅葺き職人がいます。」と書かれていて、金属の板で被せた屋根を缶詰屋根と呼んで、それについての興味深い考察が掲載されている。
撮影を始めると、近くにまだ茅葺きの家もあった。今後は彦根市の茅葺きと茅葺きをトタンなどの金属で被せた缶詰屋根を観察、記録していこうと思っている。