故郷(ふるさと)について 小石原の皿山

小石原の茅葺き

ルーツを探す旅を経て、私にとっての故郷(ふるさと)について考えた。「こきょう」は広辞苑によると【故郷】「生まれ育った土地。ふるさと。郷里。」となっている。
生まれ育った土地を意味する類語は数多くあり、一部をあげると郷土・郷里・古里・旧里・田舎・在所・地元・生まれ・生地・出生地・出身地・出所・国・国もとなどがある。

また「ふるさと」は広辞苑によると【古里・故郷】
1、古くなって荒れはてた土地。昔、都などのあった土地。古跡。旧都。
2、自分が生まれた土地。郷里。こきょう。
3、かつて住んだことのある土地。また、なじみ深い土地。

「ふるさと」を書く場合、ふる里・古里・故郷などがあると思うが、新聞では故郷と書いた場合は「こきょう」と読ませ、「ふるさと」と読ませる場合は古里と書くようだ。
故郷を「ふるさと」と読むのは高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「兎追ひしかの山」で始まる唱歌のタイトル「故郷」を「ふるさと」と読ませる影響もあるようで、私も故郷と書いてふるさと読む場合も多い。

故郷は多分「こきょう・ふるさと」どちらで読んでも良いのだろうが、読み方で意味合いが少し違うように思う。故郷を「こきょう」と読むと、生まれ育った土地の意味合いが強いと思われる。今回のように故郷を「ふるさと」と読む場合は、生まれ育っただけではなく、かつて住んだことのある土地やなじみ深い土地、そして田舎的な土地柄なども含まれてくる気がする。

故郷と同じような意味で自分のルーツを示す言葉で良く使われるのは、出生地・出身地・地元などではないだろうか。出生地は実際に生まれた土地なので良いが、それ以外は使い分けで悩むこともある。
地元の場合は、生まれ育った場所でも使うが、現在居住している所や本拠地的な使い方が多いように思う。出身地は故郷とかなり近い気がする。出身地は幼少期から高校卒業(または中学卒業)までを過ごした所を言う事が多いが、どちらも生まれた土地だけではなく、幼少期から思春期の頃に住んで自分のアイデンティティが確立した場所を言うからだと思う。

私の故郷はと言えば、福岡県遠賀郡水巻町で筑豊の炭鉱町になる。そこで生まれて高校を卒業するまで過ごした。住んでいたのは下の写真にある炭鉱住宅の長屋(赤丸の所)だった。

日炭高松炭鉱 第一鉱
【「日炭高松炭鉱の記憶」昭和30年代の日炭高松・第一鉱】より引用して加工

しかし私が故郷(ふるさと)いう言葉で連想するのは、人も家も少なく自然に囲まれたひなびた田舎の風景だ。生まれ育った所は、それとは少し違うし、ルーツを探す旅でも書いたが先祖代々住む土地でも無かった。
私はこれまでに済んだことのある場所は現在の所を含めて15か所になり、引っ越しは14回もしている。子供たちにも古里的な環境を与える事は出来なかったように思う。

自分の故郷はと聞かれると、やはり九州(福岡)と言うし、それは生まれ育った所になる。しかし第二の故郷のように感じる場所が二か所あり、それは古里のように感じる場所だ。一つ目はかっての福岡県朝倉郡小石原村皿山で、現在の福岡県朝倉郡東峰村小石原の皿山地区である。ここは高校卒業後に1年間住んでいた。
もう一つは現在撮影中の君ヶ畑である。君ヶ畑は住んだことは無いが、何度も訪れていて住人さんとも顔なじみで、懐かしい場所になっている。共通するのは美しい自然に囲まれ、長く変わらない景色が残っている事だと思う。

小石原は飛び鉋 、刷毛目、流し掛け、打ち掛けなどの技法がある陶器の小石原焼で知られている。小石原焼は柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチなどの民藝運動で知られるようになり、私は高校を卒業して小石原焼の福島窯に弟子入りした。
当時皿山の窯元には各地から同世代の若者達が弟子入りしていて、彼らと酒を酌み交わし遅くまで語り明かすことも多かった。標高500メートルの山中に開けた山村である小石原焼の窯元では、焼き物以外に米作りなどもやっていて稲刈りなども手伝だった。茅葺きの家も残っていて、風呂は五右衛門風呂だった。そんな田舎だったので、1年間暮らしただけだが、愛着の残る場所である。

1967年頃の小石原にて
1968年頃 木乃丸院窯の松山正博さんと一緒の所を松山昌子さんが撮影。
場所は松山さんが弟子入りしていたマルダイ窯の所だと思われる。

ルーツを探す旅の帰りに、フェリーまでの時間が少しだけ取れたので約20年ぶりに寄ってみた。前回来た時に訪ねた私が弟子入りした福島本窯(ちがいわ窯)は、皿山から国道211号沿いに引っ越している。弟子入り当時に小学生だった福島善三さんは、現在は窯元を受け継いでいる。そして独自の作風を確立して、2017年に重要無形文化財保持者として人間国宝に選ばれている。
今回は当時いた若者のうちで一人だけ残る、やままる窯の梶原二郎さんと少しだけ会う事ができた。もう仕事は引退しているそうで、息子さんが14代目を継いでやっておられる。

皿山には38年ぶりに行った。私が弟子入りした1968年頃は窯元はほとんど皿山にあって10戸程度だったのではないかと思うが、現在は211号線沿いなども含めて50戸程が窯元としてやっている。皿山は多分年月と共に変わっていると思うが、見覚えのある所も多くて懐かしかった。

1984年1月 小石原皿山の中野大明神にて
2022年9月21日 小石原皿山の中野大明神
1984年1月 マルダイ窯の前で
2022年9月21日 マルダイ窯は茅葺きを1年位前に葺き替えたそうだ。 
2022年9月21日 左の建物は昔「山の茶屋」だった。ここで酒を酌み交わし語り合ったりしていた。この坂を登るとかっては福島本窯があった。
2022年9月21日 弟子入りしていた福島本窯があった場所。右側に住宅、左に工房があった。その2階に住み込みで弟子入りしていた。

最後に若い頃に読み今でも好きな伊東靜雄の「詩集 わがひとに與ふる哀歌」に入っている「曠野の歌」を紹介しようと思う。

伊東靜雄の詩「曠野の歌」

ルーツ探しの旅 佐賀・長崎

三川内橋

1977年に「ルーツ」というアメリカのテレビドラマが放送され見たのをかすかに記憶している。内容は親子三代の黒人奴隷の物語で、視聴率も高くて当時は日本でもルーツが流行語となり、ルーツ探しに関心が集まった。最近ではNHKで著名人の家族の歴史を本人に代わって取材する「ファミリーヒストリー」が放送されていて、私は番組のファンの一人だ。

田舎にある古い家に行くと先祖の写真をずらりと壁に飾っている部屋を見かけるが、我が家には先祖の写真がほとんど無かった。子供の頃は母方の祖母が近くにいるだけで、それ以外の祖父母は知らなかった。母から親戚の事などを時々聞いてはいたが、父の母親が再婚していて関係が少し複雑でよく理解できていなかった。それでいつかは家系図を作ろうと思っていたが、仕事をしている時は忙しく実現できなかった。

仕事をリタイヤした後に、可能な限り戸籍を取り寄せてやっと家系図を作る事ができた。家系図は江戸末期まで遡れたが、父方は4代前で母方は5代前までだった。何代も続く古い家柄でもないので、戸籍で辿れるのはそこ位までのようだ。内容について聞きたい事は沢山あるが、両親はもういないのでそれもできない。

父の戸籍地は福岡県中間市で5才の頃に父親(祖父)と死別して、母が再婚する時に連れ子として入籍している。古い戸籍には継子と記載されている。母の父親も5才の頃に亡くなり、母親(祖母)は出身地を離れたまま再婚はしていない。戸籍によると母の父親は高知県だったが、父の両親は二人とも長崎県で、母の母方を辿ると長崎県と佐賀県だった。

いつか両親の関係する長崎、佐賀方面へルーツ探しに行きたいと思っていたが、9月17日に法事で福岡(北九州市八幡西区)へ行く事になった。そのついでにハウステンボスも計画に入れて長崎と佐賀方面へ行く事にした。

法事の翌日に最強級と予報された台風14号が九州に上陸、19日午前8時過ぎにはすぐ近くを台風の中心が通り過ぎて行った。宿を予約していたので、まだ台風の強風域ではあったが予定通りに佐賀、長崎方面に車で出発した。

まず母方の祖母の母(曾祖母)の出生地である佐賀県伊万里市波多津町(旧西松浦郡波多津村)に行った。山間の静かな所で旧姓で聞いてみたが、近所には該当する人はいなかった。

佐賀県伊万里市波多津町(旧西松浦郡波多津村)
佐賀県伊万里市波多津町(旧西松浦郡波多津村)の本籍付近

次は父方の祖母の父(曾祖父)の本籍に行った。長崎県松浦市調川町(旧北松浦郡調川村)で、やはり山間の静かな所で旧姓で聞いてみたが、近所には該当する人はいなかった。

長崎県松浦市調川町(旧北松浦郡調川村)
長崎県松浦市調川町(旧北松浦郡調川村)の本籍地付近

次は父の出生地である長崎県松浦市調川町上免(旧北松浦郡調川村上免)へ行った。やはり山間の静かな所だったが、区長さんを紹介してもらったので色々と話を聞くことができた。調べてもらったが近所には旧姓で該当する人はいなかったが、この辺には昔は炭鉱があった所だと教えてもらった。
調川町はかって石炭産業で栄えていて、近くに松福炭鉱や中興江口炭鉱などがあったとの事だった。近くには炭鉱の坑口があり、ボタ山もあって下免の方からトロッコで運んでいたそうだ。ボタ山の跡だと教えてもらった所は、年月が経ち緑に覆われていて説明を聞かないとそれだったとは分からない。

1961~1969年松浦市調川町
1961~1969年長崎県松浦市調川町上免(旧北松浦郡調川村上免)
「出典:国土地理院撮影の空中写真(1961~1969年撮影)を加工」
赤丸印の中央部が本籍の地番付近で、左上にはまだ炭住らしきものがある。
赤丸の中央左が現在は緑の小山になっているボタ山の跡ではないかと思われる。
1974~1978年松浦市調川町
1974~1978年長崎県松浦市調川町上免(旧北松浦郡調川村上免)
「出典:国土地理院撮影の空中写真(1974~1978年撮影)を加工」
松浦市調川町上免(旧北松浦郡調川村上免)本籍の付近
太陽光パネルのすぐ後ろの緑の盛り上がっている所は、以前ボタ山だったと教えてもらった。
左の小山の所には炭鉱の坑口があったとの事だった。

ここまで手掛かりは何もなかったが、念のために調べておいた父方の祖母の父(曾祖父)の長男つまり祖母の兄の死亡地に行ってみた。もしかするとゆかりのある人がいるかもしれないと思ったからだ。
そこは佐世保市鹿町町下歌ケ浦(旧北松浦郡鹿町町下歌ケ浦免)で、地番付近の道路で洗車している方がいたので尋ねてみた。偶然にもそこの区長をされている人で、小さい頃から住んでいて以前は豆腐屋をやっていたらしい。聞くと死亡地の番地はこの辺り一帯のもので、旧姓と同じ名前の人は近くにいないとの事だった。この土地の事を聞くと、以前は炭鉱の住宅があった場所だと教えてくれた。

調べるとここには日鉄鹿町炭鉱があった。正式には日鉄北松鉱業所で、子供の頃に見た事がある初のカラー東宝怪獣映画「空の大怪獣ラドン」(1956年公開)のロケ地だった。
長崎県北部の北松浦半島一帯にある炭田は北松炭田または佐世保炭田と呼ばれて、ウィキペディアによると江戸時代から始まった採炭事業は1955年(昭和30年)には、操業中の炭坑98ヶ所、年間出炭量336万トン、従業員総数は約1万8千人という規模だった。1973年(昭和48年)に本ヶ浦鉱(鹿町町)閉山で石炭採掘の歴史が終わっている。

こうしてみると、私の祖先は古くは農家で石炭産業が近くで興りそれに従事していたのではないかと思われる。その後どのようになったか知るすべも無いが、父は母親と一緒に1934年(昭和9年)に松浦市調川町から石炭産業が盛んだった筑豊地方の福岡県中間市で再婚している。

1961~1969年佐世保市鹿町町下歌ケ浦
1961~1969年佐世保市鹿町町下歌ケ浦(旧北松浦郡鹿町町下歌ケ浦免)
「出典:国土地理院撮影の空中写真(1961~1969年撮影)を加工」
丸印中央が本籍の地番で、炭住らしきものがある。
道路を挟んだ海側にも炭住らしき建物が写っている。
1974~1978年佐世保市鹿町町下歌ケ浦
1974~1978年佐世保市鹿町町下歌ケ浦(旧北松浦郡鹿町町下歌ケ浦免)
「出典:国土地理院撮影の空中写真(1974~1978年撮影)を加工」

最後に母方の祖母の父(曾祖父)の本籍地である、長崎県佐世保市三川内町(旧東彼杵郡折尾瀬村三川内免)に行ってみた。ここは三川内焼で知られる所で、江戸時代から続く陶磁器の生産地である。本籍地付近に住む人に聞いてみたが、残念ながらここでも手掛かりは何もなかった。

今回のルーツ探しでは大した成果は無かったが、祖先の住んでいた土地柄や仕事に関しては少しだけ想像できたので良かったと思っている。これで九州編は終わりになるが、母方の祖父の出身地である高知県にも近いうちに行ってみたいと思っている。

三川内-01
長崎県佐世保市三川内町(旧東彼杵郡折尾瀬村三川内免)の本籍地付近
台風14号の影響で稲穂が倒れている
三川内-03
本籍付近にある三川内橋
三川内-02
川内橋の親柱は陶板と陶器の壺で装飾してある