「中平拓馬 火―氾濫」展

2024年2月6日から4月7日まで東京国立近代美術館で企画展「中平卓馬 火―氾濫」が開かれた。1973年晶文社発行の「なぜ、植物図鑑か 中平拓馬映像論集」は若い頃に読んだ記憶はあったが、まだ手元にあったので今回の展覧会を機に新幹線で再度読みながら東京へ向かった。

会期も終わろうとする4月4日に行ったが、注目度は高いようで平日にも関わらず多くの人で混雑していた。また年齢も若い人から高齢者まで幅広く外国人も多かった。この企画展は「日本の写真を変えた、伝説的写真家 約20年ぶりの大回顧展」との触れ込みで案内されていたが、確かに彼はそれまでの写真とは違う新しい表現を提示していたと思う。

今回は没後初の大規模な回顧展と言う事で、初期の雑誌や日記など資料も実に多く展示されていた。「なぜ、植物図鑑か」を書くきっかけとなった美術手帖(1972年8/9月合併号)の読者から欄に掲載された、吉川知生「中平拓馬に向けて」も展示されていた。
これまで未公開の作品も多数展示されていてとても見ごたえがあった。滞在時間は3時間程だったが、もっと時間をかけて文章なども読んでみたかった気もしている。

私は20代の頃、写真家としては東松照明や森山大道の作品に惹かれていて、その二人と細江英公・深瀬昌久・横須賀功光・荒木経惟などの写真家が講師として参加したワークショップ写真学校の夏季セミナー(東京1975年8月27日~9月1日)に一部だが参加した。
しかし、中平の写真はあまり見た記憶が無かったので、今回は初めて見るものがほとんどだった気がする。初期のものは森山の写真と言われても違和感のない作品が多い気がした。

東京国立近代美術館入口の案内
氾濫【「15人の写真家」(1974年)出品作】東京国立近代美術館
「森山大道 にっぽん劇場[no.55] 1966年 東京国立近代美術館」撮影中の中平拓馬

今回の展覧会とは別になるが、中平卓馬の思い出があるので残しておこうと思う。
「写真家・東松照明 全仕事」展(名古屋市美術館 2011年4月23日~6月12日)のオープン初日に名古屋市中区役所ホールで記念鼎談が開かれた。ゲストは中平卓馬(写真家)と倉石信乃(明治大学准教授)そして東松照明も来る予定であったが、当日は体調不良のために電話での参加となった。名古屋市美術館学芸員の竹葉丈の司会で進行していったが、中平は舞台上で一言も発さなかったのを今でも記憶している。
その時の事は『あるYoginiの日常【「写真家・東松照明 全仕事」 名古屋市美術館】』に報告があるので、その一部を引用しておこう。

『時間は1時間半だったが、そのうち約1時間しっかりした口調で自身の写真について、出演者や司会の名古屋市美術館学芸員・竹葉氏からの質問に答えていた。
中平卓馬は、一言もマイクに向かって話さなかったが、彼を指名したのは東松照明氏自身で、曰く「非常に気になる写真家だった。アル中で、記憶喪失になったが、その前は論客だった。体調を悪くしてどうなっているのか気になったので、ぜひあって話したかった。」とのこと。

東松氏本人が出席されていたら、また状況は変わったかもしれないが、今回は東松氏が、中平氏との出会いから当時の交流の様子を思い出話のように語っておられたのが印象深い。その時、中平氏は何を思っていたのだろう。』

「写真家・東松照明 全仕事」展 記念鼎談の右端が中平拓馬
東松はこの頃中平をよく撮影していたが、これはまだ編集者であった頃の中平
中平は1965年雑誌の編集部を退社していて、この写真は肩書が写真家となっている

編集者だった中平は東松との出会いで写真家へ転身し、また森山大道とも東松の紹介で知り合っている。そして東松はその頃に中平を多く撮影している。
東松照明はこの展覧会の翌年に亡くなり、中平拓馬は2015年にこの世を去っている。

トタン屋さん

鬼飾り

2020年4月から彦根市にある茅葺きとトタンを被せた屋根の家を調べ始め2023年11月に一応完了した。合計は218戸で、そのうち現在も茅葺きで残っているのは9戸だった。記録しながらトタンを被せた職人さんに話を聞きたいと思うようになり、彦根のお隣、多賀町の松田哲さんを紹介してもらった。
松田さんは昭和22年生まれで、中学卒業後に家業である建築板金業についた。最近は手伝い程度で、仕事は息子さんが継いでやっている。建築板金は主に屋根・外壁・雨といなど、薄い金属板に加工を施して取り付けまで行う仕事である。職業の呼び名は、トタン屋さん、板金屋さんが多く昔はブリキ屋さんとも呼ばれたりしたそうで、言葉の響きが懐かしい。

茅葺きにトタンを被せる仕事の最後は20年位前が最後で、およそ40年携わった。多い時は年10~15戸やっていて、月に2戸やった事もあった。1戸を2~3名で10日間ほどかけて仕上げるが、帰ってからも夜に次の日の材料の用意などやって忙しかったらしい。
その後は知り合いの板金屋さんが茅葺き屋根の仕事をやった事がなかったので、やり方を教えながら材料の手配など含めて手伝った事もあった。また約3年前に波板トタンを被せてある屋根を、瓦型のガルバリウム鋼板に張り替える仕事はやったとの事だった。

茅葺きの家は、松田さんはクズヤと呼んでいる。クズヤとは茅葺き民家のことで漢字では葛屋(家)と書く。家の造りは、すべて合掌の下を尖らせて梁に載せてあるだけのサス組だったそうだ。屋根の材料は波トタンで、昔は塗装無しトタンだったのでコールタールを塗っていた。その後カラートタンが出てきたが、色はグレーと茶色だった。

サス組
中央部分で先を尖らせて梁に組んであるのがサス組

父親の頃は大工さんと組んでいたが、哲さんは下地なども含めて全部自分でやっていた。作業は足場など組まずに行い、工程はまず小屋組の4本の合掌(サス)に梁としてそれぞれ5寸×2寸5分×2間の角材をボルトで固定して茅葺きの外まで出し、それに3寸5分の角材を棟木と平行に載せる。使う材料の数は屋根の大きさによって変わるが、垂木部には丸太(20尺~25尺)を二つ割りに加工したものを10~12本使い、トタンの下地には1寸5分4メートルの角材を150本位使うとの事だった。
他の職人では、梁の角材は入れずに直接合掌に下地を止めていくやり方をしているなど、職人によってやり方はそれぞれで、特に決まったやり方はない。

仕事は工務店などからなどではなく、注文主から直接受けていた。また屋根のデザインなどは特に注文主と相談する事はなく、自分で決めていた。破風の装飾については水文字を入れる事が多く、懸魚や樽の口などはやっていないが、家紋は入れた事がある。水文字は初めは換気にもなるので切り抜いていたが、そこから雨水が入るなどの理由で途中からは裏に茶色のトタンを貼り合わせるようになった。

破風に水文字
破風に水文字

その当時に使用した水文字の型は今も残してある。地棟飾りもやったそうで、水文字の型は破風と同じものを使っていた。地棟飾りが壁の両側にある場合は、丸太である地棟の元口と末口で大きさが違うため、サイズの違う2種類を用意し、黒のスプレー缶で塗装していたとの事だった。水文字のサイズは破風と地棟の大きな方は高さが31~38cm、地棟の小さな方は23cm位である。

水文字の型
水文字の型

松田さんは、写真①の降棟や隅棟の先端に付ける鬼または鬼飾りと呼ばれるものも作っていた。トタン板を切り抜いて、曲げや折るなどの加工やはんだ付けをして仕上げる。手間のかかる作業なので、外で仕事のない日などにやっていた。後に既製品が出てきてからは作らなくなったが、それに使った型などは残してあり、以前作った完成品が写真②と写真③である。

降棟や隅棟の鬼飾り
写真①
隅棟の鬼飾り
写真② 隅棟鬼飾り (幅×奥行き×高さ) 355×83×245mm(取付部25mm)
降棟の鬼飾り
写真③ 降棟鬼飾り (幅×奥行き×高さ) 170×83×168mm(取付部10mm)
鬼飾りの型
残してある鬼飾りの型 (幅×高さ) 415×315mm

これまで記録して気になっていた茅葺きにトタンを被せた屋根の家や地棟飾りなどはトタン屋さんと関係していて、今回色々と質問に答えて頂きこれまでの疑問が解決できた。たくさん話を聞かせて頂き、また撮影もさせて頂いた松田さんには大変感謝している。