地棟飾り

名古屋から彦根に引越してから4年になるが、木造住宅の妻壁に水という文字が書いてあったりする飾りのような物を多く見かける。それが地棟飾りと言うのを知ったのは最近の事である。
名古屋では見た記憶がなかったので、先日行った時に古い町並みが残る西区の四間道を歩いてみたがやはり見つける事はできなかった。帰ってからパソコンで岩倉街道沿いの西区中小田井周辺をストリートビューで調べてみると数軒あるのを確認できたが、水と言う文字は無かった。その辺りは以前歩いたことがあるけれど、自分が興味のある物しか記憶には残らないのだなと再認識した。

地棟とは棟木の下に棟と平行に架かる太い横架材で、地棟梁とも言う。木造住宅の伝統構法で使用される部材で、曲げ強度のある松の丸太が使用される。屋根の積雪荷重などを建物全体に分散させる効果もあるが、近年は良質の地松(国産の松)が少なく高価な事や、伝統構法で作る家も少なくなっているために新しい家で見る事はほとんどない。
地棟飾りや妻壁の意匠は大工さんや工務店によって特徴があるとの事で、同じ地域ではよく似たデザインのものをよく見かける。同業者はその部分のデザインをみると、どこが作ったか分かるらしい。

地棟の妻壁から出た木口部分の9割近くは保護の為にトタンでカバーし塗装している。中には木口が見える様に前面を透明な材料で覆っていたりする。それ以外は木口をそのままで塗装するか、木の板や漆喰などで保護している。
現在合計70件ほど調べたが、トタンで被せたものを主な形で分けると、八角形と駒形の二通りになり数はほぼ半々である。色は四分の三は茶で白との二色が多く、次に多いのは黒で青や緑が各1戸あった。八角形は四角の角を面取りしたものも含むが、丸太をカバーしているので縦横は同寸のようだ。駒形の半分は上部を屋根状にして家の形の様になっている。またカバーの半分には何らかの装飾が施してあり、火伏のまじないで水文字を入れているのは全体では四分の一あった。

また漆喰で作った地棟飾りを2戸見つけた。土蔵などにある円形の鏝絵(こてえ)は丑鼻(長野県の左官用語)と呼ばれているが、地棟飾りの一種のようである。ネットで調べると丑鼻は長野県に多くあり、富山、京都、山梨などにもあるようだ。

地棟は棟に平行して端は両側の妻壁に出ている事が多いが、全体の三分の一位は片側のみしか確認できなかった。また地棟端が壁から出ている位置は、地棟が棟木の真下にある場合は中央になるので自然な気がするが、四分の一位は中央から少し外れている。部屋の間取りなど関係するようだが、個別の理由はよく分からない。
そして地棟飾りはほとんど2階建の2階部分だけにあるが、1階にもある家が4戸あった。2階部分にあるものは地棟で1階部分の梁は地棟と呼ばないかも知れないが、木口をカバーしている物はここでは地棟飾りとしている。

妻部分にある飾りを全般的には妻飾りと言うが、日本建築の城郭や社寺などでは古くから妻飾りを色々と施している。以前茅葺の妻飾りについて調べると、水文字、懸魚、家紋や屋号などがあった。また最近建てられた洋風の住宅にも、文字などをデザインした鋳物製の妻飾りがある家を所々で見かける。
彦根以外でも湖東地方には地棟飾りが数多くあるようなので、今後も観察と収集を続けていこうと思っている。

ルーツ探しの旅 完結編 黒潮町

鹿島ヶ浦から望む黒潮町佐賀

ルーツ探しの旅 佐賀・長崎」の続き、母方の祖父と曾祖父の出生と本籍地である高知県幡多郡黒潮町佐賀を訪ねた。19日に福岡で両親の法事があったので、その帰りに行く事にした。

宿泊した北九州市八幡西区黒崎を午前7時30分に出発、国道九四フェリー(佐賀関~三崎)を経由して黒潮町に着いたのが午後4時頃だった。その後黒潮町を午後5時30分頃に出発し瀬戸大橋経由で山陽道を使い、自宅に着いたのは翌日の午前1時だったので、滞在時間を含めて17時間30分の行程だった。
走行距離は、フェリーでの移動を含んで以下の通りである。山陽道からは雨が降り出して、久しぶりだった高速道路の運転は怖かった。今思えば、無理せずに一泊すべきだった。

北九州市八幡西区黒崎~高知県幡多郡黒潮町佐賀 348km
高知県幡多郡黒潮町佐賀~瀬戸大橋経由~彦根市 521km
合計 869km

国道九四フェリー
国道九四フェリー 遠くに見えるのは大分県の高島
佐田岬半島の風車
佐田岬半島の風車

調べた所、黒潮町佐賀はカツオ一本釣り船団による漁獲量が、合併前の佐賀町時代から県下一で黒潮町自慢の「土佐さがの日戻りカツオ」として知られているらしい。またウィキペディアによると、井上陽水は福岡県田川郡糸田町中糸田に生まれたが出生届は父親の本籍地である佐賀町(現在の黒潮町佐賀)に出されている。佐賀町の井上家は大きな網元で広い山林を持つ資産家であったが、昭和初期には没落しそこを離れている。母方の祖父や曾祖父は井上陽水の祖先とすぐ近くに住んでいたようだ。

黒潮町佐賀に到着して、役所で確認した本籍地の番地に当たる家を訪ねたが不在だったので、近くの家で土地柄などを聞いてみたがよく分からないとの事だった。何の収穫もなくては帰れないと思い、来るときに鹿島ヶ浦から佐賀を一望できた場所があったので、そこまで戻り鹿島ヶ浦の夕方の景色を撮影した。この景色を多分ご先祖達も眺めたことだろう。

鹿島ヶ浦の鹿島
鹿島ヶ浦の鹿島
鹿島ヶ浦と鹿島
鹿島ヶ浦の眺め、左の山の手前に見えるのが佐賀

鹿島ヶ浦の撮影を終えて再度本籍地の番地に行きその付近を撮影していると、その家の方が車で帰って来られた。事情を話すと、色々とお話を聞くことができた。その家は祖父の代にここへ来られたとの事だった。私の曾祖父の死亡地は大阪で、その頃にはそこを離れていると思われるが、番地が当時と同じであるかはよく分からないとの事だった。

佐賀は土佐の小京都と呼ばれる中村(現在の四万十市)の東に位置していて、奉行所や旅籠屋などもあって賑わっていたそうだ。本籍の番地は、そのような中心部だった通りに面している。住人の方は私と同じ年で、帰りに何かの参考にとお父様のエッセイをまとめた本を頂いた。そして母の旧姓である窪田について、もし何か情報があれば連絡して頂けるようお願いして佐賀を後にした。

母は生前、祖父である父親は高知の武士の家系だったと言っていた。祖父は長男であったが早くに高知を出たようで、27才の時に福岡県中間市で祖母と結婚しているが、母が6才の時に39才で亡くなっている。
祖父の祖先が住んでいた佐賀は武士のいるような城下町ではないが、それなりに賑わっていたようで奉行所もあったとの事なので、武士の可能性も僅かだがあるかも知れないと思ったりしている。
今回の旅で地元の人の土佐弁を聞いていると、祖父は土佐弁から筑豊弁の所に移動しているので、方言の違いに戸惑ったのではないかと想像を膨らませたりした。

これでルーツを探す旅は終わりにしようと思う。地元のお寺や郷土史を調べるなど、少しは手掛かりを探す方法はあるかも知れないが、出生地を離れて移動していると、そのまま何代も住んでいるような家系と違いルーツを探すのは難しい。祖先と関係する人などに巡り合う事は無かったが、それぞれのルーツが住んでいた土地柄を少しは知る事ができたので良かったと思っている。

黒潮町佐賀-1
黒潮町佐賀の本籍地付近
黒潮町佐賀-2
黒潮町佐賀、後方は海方面で昔からあるこの通りに本籍地がある