君ヶ畑の住宅[2020年10月6日・11月19日]

君ヶ畑の住宅

コロナウィルスの影響で休んでいた君ヶ畑への取材を再開し、10月6日と11月19日の2回訪ねた。撮影は主に風景や住宅などの外観を主体にして、人物や生活ぶりなどは様子を見ながら少しずつ始めている状態である。

住宅など外観の撮影がある程度進んだので、現在までの所を整理して残しておこうと思う。今回は住宅についてだが、野外活動研究会刊「フィールドへ No6 君ヶ畑」で岡本大三郎氏が下記の君ヶ畑概略地図に1979年(昭和54年)10月現在の住宅や施設に番号やアルファベットを記載し記録している。今後はこの番号やアルファベットを写真のタイトルに記載する事とする。

君ヶ畑概略地図
【1979年10月現在の君ヶ畑 家屋屋根形状と民家以外の建物や施設など
調査・イラスト制作:岡本大三郎(「フィールドへ No6 君ヶ畑」より引用)】

現在自治会の加入は26戸あるが、全てが住んでいる訳ではなくて、常時住んでいる家、時々(月に数回程度)帰ってくる家、ごくたまに(年に1、2回程度)帰る家、廃屋となっている家などが混在している。居住の状態は今後の取材で記録していく事として、今回は外観の記録のみになる。

1979年は調査報告では住宅数は55戸であるが、2020年11月現在では2戸は解体され更地となり、1戸は一部のみが残り住宅としては52戸ある。完全な廃屋から一部が壊れてそのままなど違いはあるが、廃屋状態になっている住宅は6戸ある。その他周りが雑草だらけで、ほとんど手入れされていない家は2戸ある。

1979年の民家の屋根の形状別では、入母屋茅葺きは15軒、入母屋茅葺きの上にトタンを被せたものが17軒、切妻にトタン葺きは18軒、切妻に瓦葺きが5軒あった。2020年では入母屋茅葺きは無くなり入母屋茅葺きの上にトタンを被せたものが28軒、切妻にトタン葺きは19軒、切妻に瓦葺きが5軒になっている。
入母屋茅葺きの家が3軒無くなり、入母屋茅葺きの上にトタンを被せた家の1軒は建て替えて切妻にトタン葺きになっている。無くなった3軒の家は、1979年当時は全て茅葺きだった。
ネットで調べると2011年6月24日撮影の「愛しきものたち 東近江市 君ヶ畑(きみがはた)」と言うサイトに、今は無い18番の家と思われる一部壊れた萱葺き屋根が紹介されている。この頃までは茅葺き屋根の家が残っていたようだ。

破風に「水」の文字

茅葺きの破風-003

茅葺きにトタンを被せた家を記録していると、破風に水という文字の書いてある家が多い。彦根市では茅葺き以外の民家でも時々見かけるが、以前住んでいた名古屋市近辺では見なかったので気になっていた。調べてみると関西方面にはよくあるようで、滋賀県は特に多いようだ。

小椋谷の君ヶ畑の写真を調べてみると、破風に家紋の場合もあるが多くの家に水の文字があった。これまで気が付いてはいたけれど、何となく屋号のようなものかなと漠然と思っていた。調べてみると瓦に水の文字があるのと同じ様に、火災から建物を守る火伏せのまじないとして入れているようだ。その由来は庶民には許されなかった懸魚(げぎょ)の代わりに水と言う文字を描くことで火伏せのまじないとしたようで、江戸時代末期に始まり明治の頃に定着したらしい。

懸魚とは神社やお寺などの破風板部分に彫刻を施し取り付けられた妻飾りの事で、もともと中国で水と関わりの深い魚を屋根に懸けることによって、火に弱い木造の建物を火災から守るために火伏せのまじないとして取り付けた事による。中国では垂魚とも呼ばれ雲南省には魚の形をした板を屋根に懸ける風習が残っているらしいが、日本では様々な意匠をこらした装飾的なものとなっている。懸魚はもともと寺社や城の建築のみに使われていたが、江戸時代には武家屋敷や庄屋クラスの民家にも付けられることが許されるようになり、明治以降は一部民家の建築でも使われるようになった。機能的には屋根の両端の瓦のない部分や、棟木や桁の端などを隠して雨風から守る意味もある。

彦根市の社寺にある懸魚
彦根市の民家に破風にある「水」の文字

これまで撮影した茅葺きの破風には色々なタイプがある。トタンを被せた屋根では水の文字や家紋、懸魚もあった。茅葺きが残っている家では、文字などは無く前垂れと呼ばれる葭などを竹で押さえた棟端飾りが残っている。これまで記録した12戸のうち水の文字があるのは6戸だった。また懸魚は4戸に付いていて、1戸は懸魚、家紋、水の文字と三つ揃っている。