トタン屋さん

鬼飾り

2020年4月から彦根市にある茅葺きとトタンを被せた屋根の家を調べ始め2023年11月に一応完了した。合計は218戸で、そのうち現在も茅葺きで残っているのは9戸だった。記録しながらトタンを被せた職人さんに話を聞きたいと思うようになり、彦根のお隣、多賀町の松田哲さんを紹介してもらった。
松田さんは昭和22年生まれで、中学卒業後に家業である建築板金業についた。最近は手伝い程度で、仕事は息子さんが継いでやっている。建築板金は主に屋根・外壁・雨といなど、薄い金属板に加工を施して取り付けまで行う仕事である。職業の呼び名は、トタン屋さん、板金屋さんが多く昔はブリキ屋さんとも呼ばれたりしたそうで、言葉の響きが懐かしい。

茅葺きにトタンを被せる仕事の最後は20年位前が最後で、およそ40年携わった。多い時は年10~15戸やっていて、月に2戸やった事もあった。1戸を2~3名で10日間ほどかけて仕上げるが、帰ってからも夜に次の日の材料の用意などやって忙しかったらしい。
その後は知り合いの板金屋さんが茅葺き屋根の仕事をやった事がなかったので、やり方を教えながら材料の手配など含めて手伝った事もあった。また約3年前に波板トタンを被せてある屋根を、瓦型のガルバリウム鋼板に張り替える仕事はやったとの事だった。

茅葺きの家は、松田さんはクズヤと呼んでいる。クズヤとは茅葺き民家のことで漢字では葛屋(家)と書く。家の造りは、すべて合掌の下を尖らせて梁に載せてあるだけのサス組だったそうだ。屋根の材料は波トタンで、昔は塗装無しトタンだったのでコールタールを塗っていた。その後カラートタンが出てきたが、色はグレーと茶色だった。

サス組
中央部分で先を尖らせて梁に組んであるのがサス組

父親の頃は大工さんと組んでいたが、哲さんは下地なども含めて全部自分でやっていた。作業は足場など組まずに行い、工程はまず小屋組の4本の合掌(サス)に梁としてそれぞれ5寸×2寸5分×2間の角材をボルトで固定して茅葺きの外まで出し、それに3寸5分の角材を棟木と平行に載せる。使う材料の数は屋根の大きさによって変わるが、垂木部には丸太(20尺~25尺)を二つ割りに加工したものを10~12本使い、トタンの下地には1寸5分4メートルの角材を150本位使うとの事だった。
他の職人では、梁の角材は入れずに直接合掌に下地を止めていくやり方をしているなど、職人によってやり方はそれぞれで、特に決まったやり方はない。

仕事は工務店などからなどではなく、注文主から直接受けていた。また屋根のデザインなどは特に注文主と相談する事はなく、自分で決めていた。破風の装飾については水文字を入れる事が多く、懸魚や樽の口などはやっていないが、家紋は入れた事がある。水文字は初めは換気にもなるので切り抜いていたが、そこから雨水が入るなどの理由で途中からは裏に茶色のトタンを貼り合わせるようになった。

破風に水文字
破風に水文字

その当時に使用した水文字の型は今も残してある。地棟飾りもやったそうで、水文字の型は破風と同じものを使っていた。地棟飾りが壁の両側にある場合は、丸太である地棟の元口と末口で大きさが違うため、サイズの違う2種類を用意し、黒のスプレー缶で塗装していたとの事だった。水文字のサイズは破風と地棟の大きな方は高さが31~38cm、地棟の小さな方は23cm位である。

水文字の型
水文字の型

松田さんは、写真①の降棟や隅棟の先端に付ける鬼または鬼飾りと呼ばれるものも作っていた。トタン板を切り抜いて、曲げや折るなどの加工やはんだ付けをして仕上げる。手間のかかる作業なので、外で仕事のない日などにやっていた。後に既製品が出てきてからは作らなくなったが、それに使った型などは残してあり、以前作った完成品が写真②と写真③である。

降棟や隅棟の鬼飾り
写真①
隅棟の鬼飾り
写真② 隅棟鬼飾り (幅×奥行き×高さ) 355×83×245mm(取付部25mm)
降棟の鬼飾り
写真③ 降棟鬼飾り (幅×奥行き×高さ) 170×83×168mm(取付部10mm)
鬼飾りの型
残してある鬼飾りの型 (幅×高さ) 415×315mm

これまで記録して気になっていた茅葺きにトタンを被せた屋根の家や地棟飾りなどはトタン屋さんと関係していて、今回色々と質問に答えて頂きこれまでの疑問が解決できた。たくさん話を聞かせて頂き、また撮影もさせて頂いた松田さんには大変感謝している。

故郷(ふるさと)について 小石原の皿山

小石原の茅葺き

ルーツを探す旅を経て、私にとっての故郷(ふるさと)について考えた。「こきょう」は広辞苑によると【故郷】「生まれ育った土地。ふるさと。郷里。」となっている。
生まれ育った土地を意味する類語は数多くあり、一部をあげると郷土・郷里・古里・旧里・田舎・在所・地元・生まれ・生地・出生地・出身地・出所・国・国もとなどがある。

また「ふるさと」は広辞苑によると【古里・故郷】
1、古くなって荒れはてた土地。昔、都などのあった土地。古跡。旧都。
2、自分が生まれた土地。郷里。こきょう。
3、かつて住んだことのある土地。また、なじみ深い土地。

「ふるさと」を書く場合、ふる里・古里・故郷などがあると思うが、新聞では故郷と書いた場合は「こきょう」と読ませ、「ふるさと」と読ませる場合は古里と書くようだ。
故郷を「ふるさと」と読むのは高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「兎追ひしかの山」で始まる唱歌のタイトル「故郷」を「ふるさと」と読ませる影響もあるようで、私も故郷と書いてふるさと読む場合も多い。

故郷は多分「こきょう・ふるさと」どちらで読んでも良いのだろうが、読み方で意味合いが少し違うように思う。故郷を「こきょう」と読むと、生まれ育った土地の意味合いが強いと思われる。今回のように故郷を「ふるさと」と読む場合は、生まれ育っただけではなく、かつて住んだことのある土地やなじみ深い土地、そして田舎的な土地柄なども含まれてくる気がする。

故郷と同じような意味で自分のルーツを示す言葉で良く使われるのは、出生地・出身地・地元などではないだろうか。出生地は実際に生まれた土地なので良いが、それ以外は使い分けで悩むこともある。
地元の場合は、生まれ育った場所でも使うが、現在居住している所や本拠地的な使い方が多いように思う。出身地は故郷とかなり近い気がする。出身地は幼少期から高校卒業(または中学卒業)までを過ごした所を言う事が多いが、どちらも生まれた土地だけではなく、幼少期から思春期の頃に住んで自分のアイデンティティが確立した場所を言うからだと思う。

私の故郷はと言えば、福岡県遠賀郡水巻町で筑豊の炭鉱町になる。そこで生まれて高校を卒業するまで過ごした。住んでいたのは下の写真にある炭鉱住宅の長屋(赤丸の所)だった。

日炭高松炭鉱 第一鉱
【「日炭高松炭鉱の記憶」昭和30年代の日炭高松・第一鉱】より引用して加工

しかし私が故郷(ふるさと)いう言葉で連想するのは、人も家も少なく自然に囲まれたひなびた田舎の風景だ。生まれ育った所は、それとは少し違うし、ルーツを探す旅でも書いたが先祖代々住む土地でも無かった。
私はこれまでに済んだことのある場所は現在の所を含めて15か所になり、引っ越しは14回もしている。子供たちにも古里的な環境を与える事は出来なかったように思う。

自分の故郷はと聞かれると、やはり九州(福岡)と言うし、それは生まれ育った所になる。しかし第二の故郷のように感じる場所が二か所あり、それは古里のように感じる場所だ。一つ目はかっての福岡県朝倉郡小石原村皿山で、現在の福岡県朝倉郡東峰村小石原の皿山地区である。ここは高校卒業後に1年間住んでいた。
もう一つは現在撮影中の君ヶ畑である。君ヶ畑は住んだことは無いが、何度も訪れていて住人さんとも顔なじみで、懐かしい場所になっている。共通するのは美しい自然に囲まれ、長く変わらない景色が残っている事だと思う。

小石原は飛び鉋 、刷毛目、流し掛け、打ち掛けなどの技法がある陶器の小石原焼で知られている。小石原焼は柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチなどの民藝運動で知られるようになり、私は高校を卒業して小石原焼の福島窯に弟子入りした。
当時皿山の窯元には各地から同世代の若者達が弟子入りしていて、彼らと酒を酌み交わし遅くまで語り明かすことも多かった。標高500メートルの山中に開けた山村である小石原焼の窯元では、焼き物以外に米作りなどもやっていて稲刈りなども手伝だった。茅葺きの家も残っていて、風呂は五右衛門風呂だった。そんな田舎だったので、1年間暮らしただけだが、愛着の残る場所である。

1967年頃の小石原にて
1968年頃 木乃丸院窯の松山正博さんと一緒の所を松山昌子さんが撮影。
場所は松山さんが弟子入りしていたマルダイ窯の所だと思われる。

ルーツを探す旅の帰りに、フェリーまでの時間が少しだけ取れたので約20年ぶりに寄ってみた。前回来た時に訪ねた私が弟子入りした福島本窯(ちがいわ窯)は、皿山から国道211号沿いに引っ越している。弟子入り当時に小学生だった福島善三さんは、現在は窯元を受け継いでいる。そして独自の作風を確立して、2017年に重要無形文化財保持者として人間国宝に選ばれている。
今回は当時いた若者のうちで一人だけ残る、やままる窯の梶原二郎さんと少しだけ会う事ができた。もう仕事は引退しているそうで、息子さんが14代目を継いでやっておられる。

皿山には38年ぶりに行った。私が弟子入りした1968年頃は窯元はほとんど皿山にあって10戸程度だったのではないかと思うが、現在は211号線沿いなども含めて50戸程が窯元としてやっている。皿山は多分年月と共に変わっていると思うが、見覚えのある所も多くて懐かしかった。

1984年1月 小石原皿山の中野大明神にて
2022年9月21日 小石原皿山の中野大明神
1984年1月 マルダイ窯の前で
2022年9月21日 マルダイ窯は茅葺きを1年位前に葺き替えたそうだ。 
2022年9月21日 左の建物は昔「山の茶屋」だった。ここで酒を酌み交わし語り合ったりしていた。この坂を登るとかっては福島本窯があった。
2022年9月21日 弟子入りしていた福島本窯があった場所。右側に住宅、左に工房があった。その2階に住み込みで弟子入りしていた。

最後に若い頃に読み今でも好きな伊東靜雄の「詩集 わがひとに與ふる哀歌」に入っている「曠野の歌」を紹介しようと思う。

伊東靜雄の詩「曠野の歌」