牧谷満子さんと草柳散歩さんの事

君ヶ畑の全景

5月30日に君ヶ畑の牧谷満子さんを訪ねた。君ヶ畑に常時いる家は現在11軒あるが、そのうちの1軒で写真集「小椋谷の人びと」にも写真が数枚掲載されている。

牧谷満子さん
1978年は5月27日の茶摘みの時撮影
牧谷弁治さんと満子さん
同じ部屋で撮影させてもらったが、改装されていて雰囲気が変わっている。

牧谷満子さんは昭和8年生まれで、昭和29年5月10日に弁治さんの所に嫁いできた。仕事は弁治さんと二人で炭焼・しいたけ、なめこ栽培・蚕などやっていたが、弁治さんは平成16年(2004年)に亡くなっている。40年前の取材時は、普段はご夫婦二人の生活で京都にいる娘さんが時々帰ってきていた。

牧谷弁治さん一家
1978年8月お盆の牧谷弁治さん一家(中央は満子さん)後ろで椅子に座っているのは親戚の瀬戸栄吉さん

写真を撮影させてもらいながら色々とお話をしたが、その時満子さんが一冊の写真集を出してこられた。平成25年10月に作成されたもので表紙にはタイトル『君ヶ畑と永源寺』そして「半世紀前の君ヶ畑訪問 そして永源寺との邂逅 昭和40年3月 平成11年11月 写真・文 草柳 散歩」とある。その中には昭和40年3月に草柳散歩さんが君ヶ畑を訪れた時に撮影した写真が掲載されているが、牧谷弁治さんご一家の写真もあった。

昭和40年3月の牧谷さん一家
1965年3月撮影の牧谷弁治さん一家 撮影:草柳散歩

草柳散歩さんについては【Kokeshi Wiki (https://kokeshiwiki.com/) 現代に生きる「こけし辞典」への挑戦です】というサイトに記載があるので以下に引用させて頂く。
『草柳散歩(くさやなぎさんぽ:1944~2015)』
系統:木地山系
師匠:小椋久太郎見取り
〔人物〕昭和18年5月10日神奈川県横浜市に生れた 。昭和38年夏、東京工業大学在学中から4年間、木地山に通い詰め、久太郎には大変可愛がられた。滞在中こけしの描彩なども行うようになった。散歩は平成11、12年ころに木地山に滞在して、見取りながら木地も挽くようになり、描彩もおこなった。散歩名義の他に、小椋宏一名義のこけしの中に草柳散歩描彩のものもある、平成26年8月7日没、行年72歳。

詳しくは分からないが、草柳散歩さんは本職ではないがこけしを制作されていたようで、牧谷さんの家にもこけしがあった。写真集によると昭和40(1965)年3月1,2日、大学3年21才の時に、「秋田木地山のこけし屋、小椋久太郎じいさんの名代として、木地師の故郷近江の小椋の庄君ヶ畑を訪れた」とあり、君ヶ畑の大皇器地祖神社に参拝している。
木地師の故郷として全国の木地師に認識されているのがよく分かる逸話だが、その時に記録として君ヶ畑の風景などを撮影している。集落の全体が写っているので、雪が残るなか向かいの山に登って撮影したようだが、かなり大変だったはず。その時に草柳散歩さんは、金龍寺の住職の紹介で牧谷弁治さんの家に一晩泊めてもらっている。それが縁でその後も交流があり、牧谷さんは草柳さんからこけしを頂いたり、写真集を送ってもらったりしている。牧谷さんは送られてきた写真集の封筒も大切に残してあった。それで送付先が分かったので、もし古いネガやデータがあれば資料として提供して頂けないかと思い、その住所地に草柳散歩さんのご遺族がおられないかと手紙を書いてみたが、残念ながら宛先該当無しで返送されてきた。

写真集の君ヶ畑の所だけを複写させてもらったので、昭和40(1965)年3月の記録としてここに掲載しておくことにする。もしご遺族の方がこれを目にされたら、当方までご連絡頂けると大変嬉しく思います。

2022年3月23日追記
先日お兄様がサイトをご覧頂いたとの事で、草柳散歩さんの三女の方から当サイト「お問い合わせ」から連絡が届いた。お父様の君ヶ畑に関する写真データなどを大切に保存されていて、それらのデータをご提供頂いた。その中には君ヶ畑の写真などが入っている3冊の写真集のデータもあった。

草柳さんは1965年に初めて君ヶ畑を訪ねた後、1999年に再訪し翌年にも行っている。確かご自宅は神奈川県であったと思われるが、その後2003年から2012年までに永源寺を合計9回訪問している。2003年から2009年まで5回の訪問時に撮影したものを写真集「永源寺の紅葉」として制作している。
その後古いネガをデジタル化し、2013年このサイトで紹介した「『君ヶ畑と永源寺』「半世紀前の君ヶ畑訪問 そして永源寺との邂逅 昭和40年3月 平成11年11月」を制作。その年にその写真集を牧谷さんに届け、永源寺にも行っている。その時の記録を写真集「永源寺そして再び君ヶ畑へ 2013年11月16,17日」としてまとめている。「Kokeshi Wiki」 による翌年の2014年8月7日に、今の私と同じ72才で亡くなられている。

永源寺と君ヶ畑にはご家族と一緒の時もあったりして、まるで古里のように度々訪れている。君ヶ畑はそのような懐かしさを感じる場所ではないかと思われてならない。なおデータは君ヶ畑の古い記録として自治会に提供したり、私も何かの機会に資料として使用したいと思っている。君ヶ畑を通じた、このようなご縁を嬉しく思いそして大変感謝している。

野外活動研究会「夏の発表会 2020」の原稿

小椋谷君ヶ畑の40年前と今

8月16日(日)10時より愛知芸術文化センター《12F》アートスペース・EFで行われる予定だった、2020年の野外活動研究会「夏の発表会:遠ざかるディスタンス:昭和・平成・令和の観察」の発表用原稿です。発表会は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、開催が延期となりました。現在の所、開催時期や方法は未定です。
実際の発表ではスライド上映して説明などを追加しますが、全体の概要は分かるのではないかと思い掲載しておきます。君ヶ畑の取材は、4月5日の普請以降は新型コロナウイルスの感染拡大防止のために自粛しています。そのため、まだ途中経過での発表となります。今後1年間の生活などを取材して、40年前と比較する事で何か見えてくるのではないかと思っています。

【2020年10月11日名古屋市の短歌会館にて、会員のみを対象とした発表会に変更して開催されました。10月6日の取材などを追加しましたので、発表用原稿を変更後のものに差し替えました。】

『小椋谷 君ヶ畑の40年前と今』

君ヶ畑は滋賀県の南東部にある東近江市の北東、奥永源寺地区の小椋谷と呼ばれる地域にある。鈴鹿山脈の西側山間部、愛知川の上流御池川沿いにあり、標高はおよそ450mで冬季は積雪が多い。小椋谷は「木地師のふるさと」として全国的に有名で、なかでも君ヶ畑と蛭谷は木地師発祥の地として知られている。2018年度に「小椋谷」は日本森林学会(東京)の「林業遺産」に認定されている。
【君ヶ畑の住所表示】
・40年前 滋賀県神崎郡永源寺町君ヶ畑
・現在 滋賀県東近江市君ヶ畑町
【君ヶ畑への経路】
車での主となる経路は国道421号で政所まで行き、そこから県道34号多賀永源寺線で御池川沿いに蛭谷へ、そこで34号の筒井峠方面には行かずに右折して御池川を更に約3km余り遡った所にある。現在は永源寺地区または永源寺より先を奥永源寺地域と呼んでいる。
公共交通機関の場合は、近江鉄道八日市駅から近江鉄道バス御園線で永源寺車庫(山上などでも可)まで行き「ちょこっとバス」政所線で終点の君ヶ畑下車。
・40年前 バスは政所まで 君ヶ畑へは政所から約7Kmを徒歩で1時間半から2時間

野外活動研究会は1977年(昭和52年)夏に初めて君ヶ畑を訪れ、その後2年半に渡り見聞採集し報告書「フィールドへ AD AGREM 6号―1980:君ヶ畑」として1980年(昭和55年)1月15日に発行した。私は1978年4月29日に初めて訪れ、その後1979年6月10日まで計14回19日間にわたり撮影と取材をした。それをまとめて「写真集 小椋谷の人びと」として自費出版した。その後は君ヶ畑を訪れる事も無く40年の歳月が過ぎたが、2019年から君ヶ畑のその後の様子を記録するために通っている。
「写真の記録帖」https://photokiroku.com/ 君ヶ畑の写真記録などを掲載

小椋谷と木地師
木地師は木地屋・轆轤師などとも呼ばれ、良材を求めて全国を歩く流浪の民で、木を切り出して木製の椀や盆などの器を作ることを生業とした職人の事である。
小椋谷六ヶ畑と呼ばれる君ヶ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、九居瀬(今はダムに沈む)の6集落が木地師発祥の地とされていて、その中でも君ヶ畑と蛭谷は、木地師の祖神とされる惟喬(これたか)親王ゆかりの地として知られる。
惟喬親王は文徳天皇の第1皇子であったが皇位継承争いで皇位につけずに都を離れ、近江国小椋ノ庄に隠棲して轆轤による木地製作の技法を、家臣であった小椋大臣実秀と大蔵大臣惟仲に伝授したのが木地師の始まりといわれている。
木地師については、1964年(昭和39年)発行の宮本常一『山に生きる人々』の「木地屋の発生」「木地屋の生活」で木地師について書かれていて君ヶ畑についての記載もある。また1971年(昭和46年)発行の第24回読売文学賞受賞を受賞した白洲正子『かくれ里』の中で「木地師の村」として君ヶ畑が紹介された。「当時は他の地区は過疎地帯になりつつあるが、君ヶ畑は暮らしが豊かで人口の変動も少ない。」と記されている。
その他現在は木地師に関する研究や情報は多くあり、東近江市は「木地師のふるさと」として「平成の氏子駈・氏子狩復活事業」を行うなど木地師の文化や魅力を発信している。

氏子狩・氏子駈
君ヶ畑は高松御所(大皇大明神)、蛭谷は筒井公文所(筒井八幡宮)を木地師の本拠として木地師を氏子として管理した「氏子駈帳・氏子狩帳」(県指定民俗文化財)が残っている。それは木地師が住んでいる地名や人名などが列記された冊子で、江戸時代の木地師の様子や全国の木地師の分布と移動の様子などを示す貴重な資料となっている。

戸数や人口やなど変遷
戸数の40年前と今
・1979年(昭和54年) 「フィールドへ No6 君ヶ畑」調査報告
 総戸数 54戸  常時居住の家 37戸  普段不在 13戸  空き家4戸
・2020年(令和2年)
 総戸数 52戸  不在の家(空き家を含む)32戸  廃屋状態の家 6戸
 常時居住の家 14戸(冬季は施設に入るなどで2~3戸減る)約18人
    自治会の加入 26戸( 1組6戸 2組7戸 3組7戸 4組6戸 )

人口の推移
・1880年(明治13年)人口 620人   65戸(角川日本地名大辞典)
・1955年(昭和30年)人口221人 世帯数 54 (永源寺町史 通史編)
・1975年(昭和50年)人口147人 世帯数 49 (角川日本地名大辞典)
・1995年(平成  7年)人口  90人 世帯数 36 (永源寺町史 通史編)
・2008年(平成20年)人口  53人 世帯数 27 (東近江市統計書)
・2018年(平成30年)人口  31人 世帯数 22 (東近江市統計書)

仕事の変遷
・40年前 製材所2軒 製茶工場1軒 シイタケ・ナメコ栽培 縫製の内職
・現在 「ろくろ工房 君杢」木工品 「(株)みんなの奥永源寺」オーガニックコスメ

施設などの変遷
・40年前 ・君ヶ畑分校・教員宿舎・製茶工場・製材所2ヶ所
・現在 [無くなった]・君ヶ畑分校・男女教員宿舎・丸栄製材(旧茶工場)・住宅3戸
[建物のみあり]・製材所2ヶ所・製茶工場(「木地師のふるさと 高松会」で使用)
[増えた]・ノエビア 鈴鹿高山植物研究所 2003年(平成14年)開設(「新君ヶ畑分校」1982年校舎完成 1999年に廃校)・天狗堂登山口・君ヶ畑ミニ展示館・バイオトイレ・天狗堂登山観光駐車場・NTTドコモ基地局・KDDI基地局・ガレージ・御池簡易水道浄水場・集会所・ろくろ工房君杢・バス停・住宅1戸(建て替え)
・茅葺き屋根の家 40年前 15戸  現在 0戸

君ヶ畑の姓
・40年前
小椋姓(16戸)辻姓(6戸)大蔵姓(5戸)瀬戸姓(5戸)有馬殿姓(4戸)野瀬姓(4戸)牧谷姓(2戸)田中姓(3戸)熊谷姓(2戸)城戸姓(2戸)藪、南、田附各姓1戸
・現在(自治会に参加している家)
小椋姓(9戸)大蔵姓(3戸)瀬戸姓(3戸)有馬殿姓(2戸)田中姓(2戸)家田姓(2戸)辻、野瀬、牧谷、城戸、前川各姓1戸

2020/10/11 藤山 強