かつて日本の主要な石炭の産地であった筑豊炭田の北部に位置する日本炭礦株式会社の遠賀鉱業所は日炭高松炭鉱と呼ばれた。大工だった亡き父は福岡県遠賀郡水巻町にあった日炭高松炭鉱の高松第一鉱業所で働いていた。職種は坑内大工で、軌道と言う炭鉱の線路の保守などの部門で仕事をしていた。だが石炭産業は段々と衰退し、高松第一鉱業所は1966年(昭和41年)2月に閉山、1971年 (昭和46年)には日本炭礦株式会社が解散を決めている。
この写真は水巻町古賀にあった鉱員用の炭住(古賀区社宅)と職員用の社宅(宮ノ下社宅)その周辺を1984年に撮影したものである。炭住とは炭鉱住宅の略称で、炭鉱労働者用の主に木造の長屋形式の住宅で、平屋が多かったが古賀区は2階建てだった。それらは閉山後に順次解体されていったが、この写真を撮影した当時は新しい住宅の整備が進み沢山あった古い住宅は一部を残すのみとなっていた。