日炭高松炭鉱の定点観察

かって日炭高松炭鉱第二鉱のあった福岡県遠賀郡水巻町古賀と梅ノ木団地付近の1984年と38年後である2022年の定点観察記録である。撮影場所は古い地理院地図の空中写真で調べている。1984年の写真は「日炭高松炭鉱の炭住街 1984」から8ヶ所と同じ場所を2022年11月19日に撮影した。なお写真の説明は日炭高松炭鉱の記憶にあるもの全部又は一部を引用させて頂いたが、加筆訂正など施している所もある。

なお日炭高松炭鉱の記憶のサイトは管理人の方と連絡が取れず、リンク切れも多い状態となっている。このサイトは2003年6月18日に開設され、日炭高松炭鉱をメインに筑豊の炭鉱の昔と今を丁寧に記録されていたが、2014年1月頃の更新が最後となっている。そのために引用については使用許可などは取れていないが、もし問題がある場合はご連絡頂ければと思う。

古賀区の炭住跡地は梅ノ木団地になった所以外は長い間空き地のままだったが、2013年に水巻中央幼稚園が新築され、それ以外の土地は現在太陽建機レンタル北九州西支店の総合ヤードとして使用している。なお今回の太陽建機レンタル敷地内からの撮影は許可を得て行っている。
国土地理院の空中写真にある南側の梅ノ木団地5棟(赤丸印【4~8】の東側)は取り壊されて更地になり、分譲住宅地として販売されている。38年を経過しているので大きく変わっている所が多いけれど、梅ノ木団地は当時出来たばかりなのでそれ程変化はないようだ。

写真番号【1】~【8】の撮影場所
「出典:国土地理院撮影の空中写真(1979~1983年撮影)を加工」
【1】1984年 二鉱山ノ神の階段下から見た日炭事務所(左)と宮ノ下社宅、右は明神ヶ辻山
2022年 右手の宮ノ下社宅跡は水巻町総合運動公園に変わっている
【2】1984年 二鉱ボタ山(浅川ボタ山)と、二鉱選炭場の変電所跡と思われる建物 
2022年 水巻図書館から水巻町中央方面 二鉱跡地は住宅地となり、右奥の山が唯一原形を留めている
【3】1984年 1972年に新築移転した水巻中学校(左上)と、日炭技術専門学校だった建物
2022年 日炭専用線の跡地は新道となり、右の元クリニックの裏には『躍進の像』が立っていた
【4】1984年 南側から見た古賀区の炭住跡と商店跡、その周囲を取り囲んでいる新築の梅ノ木団地群
2022年 長く空地(2014年頃までは空地を確認)であったが、現在は太陽建機レンタル北九州西支店の総合ヤード
古賀住宅-18
【5】1984年 古賀区の炭住跡の西側
2022年
【6】1984年 後方の5階建ての集合住宅は1982年築
2022年 現在は賃貸マンションのビレッジハウス水巻となっている
【7】1984年 古賀区の炭住を南から見る
2022年 右の建物は2013年築の水巻中央幼稚園
【8】1984年
2022年

ここからは日炭高松炭鉱の記憶『昭和30年代の日炭高松炭鉱第二鉱』から引用した2ヶ所の定点撮影記録。そのページは現在閲覧できないが、以前に保存したデータを使用している。
【9】は福岡県道202号水巻芦屋線の水巻町古賀を1960年頃の写真と同じ場所を、2022年11月19日に撮影した。【10】はその少し北の所で梅ノ木バス停付近だが、私の勘違いで定点撮影になっていない。1960年頃の写真は梅ノ木バス停から南の古賀方面を見ていて、【11】2022年の写真は反対側の古賀方面からで、梅ノ木団地前バス停付近から北の梅ノ木方面を見ている。吉川様の指摘で判明したので、地図と写真の説明を2023年7月14日に訂正した。

1961~1969頃の写真
写真番号【9】~【11】の撮影場所
「出典:国土地理院撮影の空中写真(1961~1969年撮影)を加工」
【9】1960年頃 南から見た古賀区社宅と新生街の商店
2022年 新生街の商店の入口部分のみ昔の道の名残がある
【10】1960年頃 北から南を見ている、右は梅ノ木バス停
【11】2022年 勘違いで山を挟んで反対の南側から撮影、右は梅ノ木団地前バス停

2022/12/06 追記 サイト「日炭高松炭鉱の記憶」の管理人さんについて情報があった。
サイトを開設していたのは三又茂さんと言う方で、折尾郷土史会に入っておられた。それと関係ある方に問い合わせた所、2014年(平成26年)頃に病気で亡くなられたと連絡を頂いた。独身であったらしくて、ご遺族との連絡は無理なようだ。

「日炭高松炭鉱の記憶」は無料ホームページサービスを利用していて、途中で利用サービスの変更があり最後はFC2の無料ホームページを使っている。2014年1月16日に新サイトに移転のお知らせがあり、現在もトップページなど一部は閲覧できる状態で残されているが、リンク切れのページが多くある。引っ越し作業がうまくいかなかったのか、途中で終わったのかは分からないが残念な状態となっている。

もし関係ある方と連絡がとれたら、こちらでサイトの再構築を提案しようかと考えたりしている。もしそれが無理な場合は、自分の関係ある所や興味があるページは、割と早い時期にダウンロードしてパソコンにデータとして残してあるので、今は見る事ができなくてこちらで保存してあるページを、アーカイブとして公開する事も考えている。当然権利者から事前に了解が必要なので、故人である場合はそのご遺族にと思うが、それは難しそうだ。もし心当たりの方があればお知らせ頂けると有難い。



“日炭高松炭鉱の定点観察” への4件の返信

吉川
2023年7月13日 4:37 PM

写真拝見して、大変懐かしくコメントしました。
【10】1960年頃 南から見ている、右は梅ノ木バス停 
これ私の記憶では北側から「梅ノ木バス停」を見ています。
バス停の右側は切れていますが梅ノ木配給所と浴場があったはずで、
右側は高松で写真の坂道は浅川に向かう道です。
「2022年 バス停(梅ノ木団地前)の位置はほとんど変わっていないようだ」のコメントですが違う場所だと思います。
1960年頃の左上の山と2022年の右上の山が同じ山です。

fujiyama
2023年7月14日 12:30 PM

吉川様
ご指摘ありがとうございます。
よくよく調べてみましたら、その通りのようです。
私は1966年頃に吉田から古賀に引っ越し2年ほど住んでいましたが、梅ノ木方面はあまり記憶にありません。昔の写真を見た時に、山の形とバス停で古賀の方からと勘違いしてしまいました。
このページを書いた時1960年頃の写真にある左に登る道がよく分からずに、合っているのか少し不安でした。元写真の説明にも「左に浅川への道路、右は梅ノ木バス停です」でしたが、浅川方面もあまりなじみがありません。
また2022年のバス停は梅ノ木団地前でしたが、名前が変わったのかなと思っていました。それと古賀だとすると、左に映画館「第二高松会館」があったはずですが、写真ではなさそうなので少しおかしいなと思っていました。
本日サイトの説明と地図写真を訂正しました。写真は定点撮影になっていませんが、そのまま残しておきます。
また行く機会があれば、改めて撮影したいと考えています。
どうもありがとうございました。

吉川
2023年7月15日 12:00 AM

ご確認頂きありがとうございます。
【10】1960年頃の場所特定は自信があったのですが
【11】2022年の風景とそっくりなので驚きました。
梅ノ木団地前バス停の位置、1960年当時は古賀で梅ノ木ではないです。現在、梅ノ木の地名は消滅してバス停名だけですね。
私は1964年に梅ノ木で生まれ、1977年まで住んでいました。
住んでた場所はショッピングモールに変わって名残もありません。
現在は千葉県在住です。

ところで『日炭高松炭鉱の記憶の案内』の事で「写真・協力者」の「*佐藤幸乃様」は 地元で40年以上講師をしている画家の佐藤先生で「https://www.nishinippon.co.jp/kyushu_event/3930/」
に問合せ先が記載されています。(ゆきのアトリエ・グループ)
その佐藤幸乃先生ですが、私の水巻中学2年時のクラス担任だったので記憶に残っています。クラス担任の途中で産休に入りそのまま教師を退職されたようです。佐藤先生の写真が「社宅街・終焉の記録」で掲載されていたのですが、リンクが切れているのか今は確認できません。そこに佐藤幸乃先生の名前がありました。写真は廃墟になった社宅(昭和55年頃?)やその頃の風景でした。
三又茂さんのことやデータ提供元をご存じかもしれないので連絡してみてはいかがですか。

右側は高松で写真の坂道は浅川に向かう道です。
右側は誤り、左側が正しいです。
現在、左のカーブしている坂道は無くなり、T字路で県道と繋がっています。

fujiyama
2023年7月15日 10:23 PM

本当に【11】は遠くに山が見えている事など、同じ場所だと思い込んでしまいました。
佐藤幸乃先生の情報ありがとうございます。三又茂さんについては、色々な所に問い合わせて可能な限りやってみました。その辺の経緯はこのサイトの『2023年1月5日「日炭高松炭鉱の記憶」デジタルアーカイブ』ページに記載していますが、佐藤幸乃先生にも一度連絡してみたいと思います。

なお昨日「日炭高松炭鉱の記憶」リンク切れのページを色々試してみて、5ページ分復元する事ができました