片山摂三写場の記憶と記録 その1

2019年9月に閉館した片山写真館(福岡市)にいた頃の事を書き残しておこうと思う。私は1970年から1973年まで約3年間いたが、当時は片山摂三写場または片山写場と言っていたと思う。何分55年も前の事なので記憶が曖昧な所も多いが、その当時の写真館や写真事情の記録になればと思う。なお、間違いや勘違いな所があればご指摘頂ける有難い。

写真に関する経験など無かった21歳頃の私は、1970年(昭和45年)に福岡市在住の写真家片山摂三(攝三 1914~2005年)に弟子入りして写真を始めた。その頃の社会情勢では、1970年の三島事件と1972年のあさま山荘事件を鮮明に記憶している。三島由紀夫の遺作となった「豊穣の海」は当時読んで感銘を受けた。またあさま山荘事件では、テレビ中継が延々と放送されていたのも覚えている。

当時はまだ徒弟制度の名残が残っていて、弟子として入門し賄のついた住み込みで働いた。賄の詳しい事は覚えていないが、お正月にブリの入ったお雑煮を頂いたのを僅かに記憶している。そしてお昼には外食していた記憶もあるので、3食ではなく2食付きだったのかも知れない。
はっきりとは覚えていないが月に2万円位もらっていたのではないかと思う。食費として1972年に六千円支払ったと記載された古い手帳が手元にある。ちなみに当時の大卒時平均初任給は52,700円との事である。その頃に運転免許を取得したが、親から4万円を援助してもらったと記憶している。

当時の住所は赤坂の交差点を東に少し行った福岡市中央区大名2丁目4-31で、前の道には西鉄の路面電車が走っていて、隣に山本文房堂があった。写真館は後に移転しているようだが、そちらについては全く分からない。
写真館は2階建の建物で、1階は受付、先生の部屋、暗室、写真を水洗する長い流し、奥に食事などする部屋、裏に小さな庭があったと思う。住み込んでいたのは奥の方にある階段を上がった2階の一部屋で、周りがベットになっていたと思う。スタジオは入り口から階段を上った2階にあったが、詳しい様子は覚えていない。

仕事は撮影の荷物運びや助手、暗室作業や写真の仕上げなどだった。そして犬が一匹いて、散歩に連れて行ったのをおぼろげに覚えている。
私がいた頃は、住み込みの弟子が4名と同居していた学生が3名いた。学生のうち二人は先生の甥っ子兄弟だったが、学生達も仕事を手伝う時があった。弟子は住み込み以外にもう一人いて合計で6名だったように記憶しているが、その内の一人だけは写真館の息子でそれ以外は家業ではなかった。
男性スタッフはそれ以外に後に館主となるチーフ格の人と妻帯者の通いが一人いたと思う。それ以外は受付や事務そして助手的な女性が合計で4~5名位いたように思う。

片山先生は営業写真館の館主であり、九州産業大学芸術学部写真学科教授でもあった。週に何日かは講義のため大学に行っていた。そして芸術家の肖像写真と石仏や観世音寺の仏像などを撮影して評価を受け、1966年には紺綬褒章を受章している。
私がいる頃に大分県にある富貴寺の撮影が行われ「国宝 富貴寺」が1972年2月淡交社から出版されている。そして4月6日に西鉄グランドホテルで出版記念会があった。その本のあとがきに、当時のスタッフに言及している部分があるので引用して紹介しよう。当時在籍していた人たちと共に、私の名前も記載されている。

「国宝 富貴寺」 あとがき 片山摂三 (昭和46年10月12日、芭蕉忌に)  
『壁画の撮影作業は、毎日、夕方七時頃から開始されて、ほのぼのと空がしらむまれ、連日、徹夜で続けられた。何故、夜業をしなければならなかったかというと、昼は河津画伯ほか二名の画家の模写がなされているのと、拝観者が多く、撮影は不可能だったからである。
連夜の撮影はまさに重労働であったが、この重労働は、助手一同のいたわり合いの場となり、たがいに心の深処で、温かく触れ合うことができたのであった。それは、現今の世相の中では、忘れていたものを取り戻したような、泌々とした喜び、ほのぼのとした美しさだった。貴重な経験であった。助手の諸君は連夜の撮影によく耐えてくれた。
感謝の意と労をねぎらうため、その全員の名を記すこととする。山口、貞包、船木、山之内、大和、柴田、藤山、本田(久)、小柳、長田、本田(恵)、土井、星野、山下の諸君は、その持ち場において、撮影から、現像、焼付け、原稿整理など全般に亘って、ただ黙々と、しかも喜々として従事してくれた。この本が成ったのは、これら諸君の陰の力によるものと、感謝に堪えない次第である。』

手元に当時何かの折に撮影した集合写真があり、そこには合計27名が写っている。片山写場にはスタッフ以外の色々な人が多く出入りし、先生の部屋で歓談していた事を覚えている。その部屋は受付の裏にあって、先生のデスクと本棚に沢山の本が並んでいた。先生は鉄瓶のお湯を器で冷まし、美味しい煎茶入れて来客にご馳走されていた。私達弟子も時々そこで話を聞いたり、お茶を頂いた。またスタッフ全員がロンという店で、美味しいステーキをご馳走になったのも記憶している。

彫刻家の豊福知徳が「新編 芸術科の肖像 片山攝三写真集」(1997年中央公論美術出版)に片山学校というタイトルで寄稿している。戦後間もない昭和21年頃の話として片山先生のもとに写真修行の青年や学生、サラリーマンなどが何という訳でもなく集って当時片山学校と呼ばれていたとの記載がある。豊福知徳もその一人であったと書いている。私がいた頃も、そのような雰囲気は残っていたように思う。

豊福知徳は彫刻家冨永朝堂の弟子であった。太宰府に住んでいた冨永朝堂は片山先生の被写体としても登場するが、駆け出しだった私も、当時お願いして撮影させてもらった事を覚えている。その写真を探したが、転居を重ねるうちにどこかにいってしまったようで見つける事ができなかった。 

下の写真は、片山先生から恐らく私が片山写場を辞める時に頂いたものだと思う。写真を手掛かりに調べると、豊臣秀吉が愛好したという能面「雪の小面」で室町時代の龍右衛門作、京都の金剛家蔵の重要文化財のようだ。恐らく何かの折に、先生が依頼を受けて撮影したものと推測される。

雪の小面
「雪の小面」龍右衛門作 金剛家蔵 撮影:片山摂三 モノクロ ネルソン金調色
雪の小面の裏
「雪の小面」写真額の裏にある片山先生の署名