髙松御所 文化財公開と講演

髙松御所文化財公開

10月23日に東近江市君ヶ畑町の髙松御所金龍寺にて、君ヶ畑町自治会と木地師のふるさと髙松会の主催で滋賀県指定文化財公開と「木地師のふるさと交流館」一周年記念講演が行われた。

記念講演は、近江の文学研究家いかいゆり子氏が『近江のかくれ里』ー白州正子の世界を旅する 木地師の村ーというタイトルで髙松御所金龍寺境内にて行われ、参加者は30名ほどであった。

文化財公開は君ヶ畑の自治会が保護管理している文化財を年一度の虫干しに合わせて公開する行事で、コロナウィルスの影響などで3年ぶりの開催となった。昨年の虫干しの様子は「君ヶ畑 文化財の虫干し」として記録しているが、その日は生憎の雨模様だったので早めに終了し仏涅槃図など出されていない物もあった。
今回は天気にも恵まれたので昨年よりも多くの文化財が出されていた。滋賀県が指定した有形民俗文化財である木地屋氏子狩帳や、今年新たに東近江市指定有形文化財に指定された江戸時代後期の能衣装とされる淡茶地草花文様錦狩衣や、昨年撮影した室町後期~江戸中期の能面6面も展示されていた。

故郷(ふるさと)について 小石原の皿山

小石原の茅葺き

ルーツを探す旅を経て、私にとっての故郷(ふるさと)について考えた。「こきょう」は広辞苑によると【故郷】「生まれ育った土地。ふるさと。郷里。」となっている。
生まれ育った土地を意味する類語は数多くあり、一部をあげると郷土・郷里・古里・旧里・田舎・在所・地元・生まれ・生地・出生地・出身地・出所・国・国もとなどがある。

また「ふるさと」は広辞苑によると【古里・故郷】
1、古くなって荒れはてた土地。昔、都などのあった土地。古跡。旧都。
2、自分が生まれた土地。郷里。こきょう。
3、かつて住んだことのある土地。また、なじみ深い土地。

「ふるさと」を書く場合、ふる里・古里・故郷などがあると思うが、新聞では故郷と書いた場合は「こきょう」と読ませ、「ふるさと」と読ませる場合は古里と書くようだ。
故郷を「ふるさと」と読むのは高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「兎追ひしかの山」で始まる唱歌のタイトル「故郷」を「ふるさと」と読ませる影響もあるようで、私も故郷と書いてふるさと読む場合も多い。

故郷は多分「こきょう・ふるさと」どちらで読んでも良いのだろうが、読み方で意味合いが少し違うように思う。故郷を「こきょう」と読むと、生まれ育った土地の意味合いが強いと思われる。今回のように故郷を「ふるさと」と読む場合は、生まれ育っただけではなく、かつて住んだことのある土地やなじみ深い土地、そして田舎的な土地柄なども含まれてくる気がする。

故郷と同じような意味で自分のルーツを示す言葉で良く使われるのは、出生地・出身地・地元などではないだろうか。出生地は実際に生まれた土地なので良いが、それ以外は使い分けで悩むこともある。
地元の場合は、生まれ育った場所でも使うが、現在居住している所や本拠地的な使い方が多いように思う。出身地は故郷とかなり近い気がする。出身地は幼少期から高校卒業(または中学卒業)までを過ごした所を言う事が多いが、どちらも生まれた土地だけではなく、幼少期から思春期の頃に住んで自分のアイデンティティが確立した場所を言うからだと思う。

私の故郷はと言えば、福岡県遠賀郡水巻町で筑豊の炭鉱町になる。そこで生まれて高校を卒業するまで過ごした。住んでいたのは下の写真にある炭鉱住宅の長屋(赤丸の所)だった。

日炭高松炭鉱 第一鉱
【「日炭高松炭鉱の記憶」昭和30年代の日炭高松・第一鉱】より引用して加工

しかし私が故郷(ふるさと)いう言葉で連想するのは、人も家も少なく自然に囲まれたひなびた田舎の風景だ。生まれ育った所は、それとは少し違うし、ルーツを探す旅でも書いたが先祖代々住む土地でも無かった。
私はこれまでに済んだことのある場所は現在の所を含めて15か所になり、引っ越しは14回もしている。子供たちにも古里的な環境を与える事は出来なかったように思う。

自分の故郷はと聞かれると、やはり九州(福岡)と言うし、それは生まれ育った所になる。しかし第二の故郷のように感じる場所が二か所あり、それは古里のように感じる場所だ。一つ目はかっての福岡県朝倉郡小石原村皿山で、現在の福岡県朝倉郡東峰村小石原の皿山地区である。ここは高校卒業後に1年間住んでいた。
もう一つは現在撮影中の君ヶ畑である。君ヶ畑は住んだことは無いが、何度も訪れていて住人さんとも顔なじみで、懐かしい場所になっている。共通するのは美しい自然に囲まれ、長く変わらない景色が残っている事だと思う。

小石原は飛び鉋 、刷毛目、流し掛け、打ち掛けなどの技法がある陶器の小石原焼で知られている。小石原焼は柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチなどの民藝運動で知られるようになり、私は高校を卒業して小石原焼の福島窯に弟子入りした。
当時皿山の窯元には各地から同世代の若者達が弟子入りしていて、彼らと酒を酌み交わし遅くまで語り明かすことも多かった。標高500メートルの山中に開けた山村である小石原焼の窯元では、焼き物以外に米作りなどもやっていて稲刈りなども手伝だった。茅葺きの家も残っていて、風呂は五右衛門風呂だった。そんな田舎だったので、1年間暮らしただけだが、愛着の残る場所である。

1967年頃の小石原にて
1968年頃 木乃丸院窯の松山正博さんと一緒の所を松山昌子さんが撮影。
場所は松山さんが弟子入りしていたマルダイ窯の所だと思われる。

ルーツを探す旅の帰りに、フェリーまでの時間が少しだけ取れたので約20年ぶりに寄ってみた。前回来た時に訪ねた私が弟子入りした福島本窯(ちがいわ窯)は、皿山から国道211号沿いに引っ越している。弟子入り当時に小学生だった福島善三さんは、現在は窯元を受け継いでいる。そして独自の作風を確立して、2017年に重要無形文化財保持者として人間国宝に選ばれている。
今回は当時いた若者のうちで一人だけ残る、やままる窯の梶原二郎さんと少しだけ会う事ができた。もう仕事は引退しているそうで、息子さんが14代目を継いでやっておられる。

皿山には38年ぶりに行った。私が弟子入りした1968年頃は窯元はほとんど皿山にあって10戸程度だったのではないかと思うが、現在は211号線沿いなども含めて50戸程が窯元としてやっている。皿山は多分年月と共に変わっていると思うが、見覚えのある所も多くて懐かしかった。

1984年1月 小石原皿山の中野大明神にて
2022年9月21日 小石原皿山の中野大明神
1984年1月 マルダイ窯の前で
2022年9月21日 マルダイ窯は茅葺きを1年位前に葺き替えたそうだ。 
2022年9月21日 左の建物は昔「山の茶屋」だった。ここで酒を酌み交わし語り合ったりしていた。この坂を登るとかっては福島本窯があった。
2022年9月21日 弟子入りしていた福島本窯があった場所。右側に住宅、左に工房があった。その2階に住み込みで弟子入りしていた。

最後に若い頃に読み今でも好きな伊東靜雄の「詩集 わがひとに與ふる哀歌」に入っている「曠野の歌」を紹介しようと思う。

伊東靜雄の詩「曠野の歌」